ミニマリズム・ミニマリスト 対 「刺激」     沼畑直樹

海外の仕事から帰ってくるたび、少し落ち込む。

毎度のことだ。

刺激的だった毎日からの精神的な揺り戻し。

今回は6月14日に帰国し、一週間以上は元気が出なかった。

そんなときは、一緒に旅した人にメールをして現況を聞く。

すると、みんな同じ症状。

少しほっとする。

 

どうして楽しいはずの「刺激」が、人を憂鬱にさせるのか。

このブログを通じて生活のリズムを変えていた私には、この憂鬱の理由が、いつもより明確な気がした。

すべては、リズムが狂ったせい。

刺激なんて、ないほうがいいのではないのか…?

 

 

旅に出る前の生活は、このブログで書いてきたとおり、整ったものだった。

朝起きて、部屋の掃除をして、子供をクルマで送り、仕事をして、夕方子供を迎えて、公園かベランダで遊んで、洗濯をして、夕食を作り、お風呂に入って寝る。

その同じ作業の毎日。

食も質素な和食が3食。

酒は、酎ハイか日本酒。

 

海外に行くと、当然西洋食の連続だ。

日本食のリズムは見事に崩壊する。リゾット、美味しい。

ワインも毎回悲鳴が出るほど。

美しい風景と静かな時の流れに、毎日ため息と感動で、人とのふれ合いも刺激的で楽しい。

いつもの日々とはまったく違う日々。

和食を懐かしむ間もなく、あっという間に旅程は過ぎていく。

 

14日の夜に帰国し、妻の作ってくれたカツ丼を食べる。

…美味しい。

佐々木さんの本が届いているが、まだ疲れ切っていて読めない。

 

翌日。

朝は非常にだるい。

掃除もやる気がでない。できないことに、少し心が乱れる。

でも、子供はクルマで保育園に送らなくてはならない。

 

クルマに乗り込む。

久しぶりの匂い。

子供を乗せ、走り出す。

いつもの道。

ほっとする。心が落ち着く。なんだこれは…。

 

私は自宅で仕事をしているから、通勤がない。

だから、この決まった行動、習慣と、慣れ親しんだ風景が、心を整えていたのだろう。

何気ない、まっすぐなあの道が、心をこんなにも落ち着かせてくれるとは。

 

帰り道に「いつもの風景だな」としみじみ思いつつ、掃除を当たり前にやれた毎日が恋しくなった。

疲れているとか、やる気がないといった感情がなく、ただ当たり前にやっていた習慣。

普通にやっていたこと。

その落ち着きが、今はない。

 

家に帰ってから、溜まった仕事の片付けがある。

やる気はないので、無理矢理やる。

そして、襲ってくる猛烈な睡魔。

時差ボケというのは、ただ眠いのではない。

徹夜明けの気持ち悪さを伴う。

午後、子供の迎えまで、熟睡した。

 

翌日から、嫌々ながら掃除を再開したが、時差ボケは治らない。

一週間以上、このボケのせいで生活リズムは乱れた(関係ないかもしれないが、撮りだめたドラマが最終回近くのものばかりで、どれも泣きに泣いた)。

次の日の早朝からロケというときでさえ、一睡もできないということが2度ほどあった。

 

月末の今になって、ようやくリズムを取り戻せている。

完璧ではないが、静かになってきた。

 

 

「刺激」は、人生に必要なことなのか?

 

この、リズムを取り戻そうと苦戦した半月の間、私は「刺激」は必要なのだろうかと考えた。

刺激のミニマリズム。

毎日、安定したリズム、生活習慣の中で、何かを考え、作るというのは非常に楽しい。

習慣も部屋も頭の中も、クリアになればなるほどだ。

刺激は、時にそれを乱す。

 

だとすると、刺激は、ミニマル化したほうがいいのか。

刺激とミニマリズム的生活は、相反するものなのか。

 

 

佐々木さんの本にもあった、決勝戦のあとの喜びが続かない現象。

刺激は、一瞬だ。

だから、人々はもう一度を追い求める。

刺激は必要なのか。

人によって、意見はさまざまだろう。

お金、麻薬、栄光…悪い刺激の例ならすぐに思い浮かぶ。

 

私の場合は海外での取材に刺激を求め続けてきた。

それはやはり、楽しい。

「刺激的な毎日」

未来への糧となる(特に若いころは)。

その点からして、やはり刺激は、ある程度は必要だとは思う。

 

しかし、私が最近やってきたミニマリズム的生活は、「刺激を減らす生活」とも言い換えることができる…。

 

 

「慣れは毒」

 

「モノを買う」という点に関して、佐々木さんは著書で「慣れは毒」と書いた。

モノを買うことで得られる刺激はすぐに慣れとなり、飽きて消滅する。

つまり、「慣れる」という習性のせいで、人は次々と新しい刺激を求めて、モノを買い続けてしまうということ。

せっかくの刺激が、刺激の敵である「慣れ」によって壊されてしまう。

たしかに、刺激にとっては、「慣れは毒」だ…。

しかし、刺激を人の(もしくはミニマリストの)敵としたら、「慣れ」は「薬」になるのではないだろうか。

 

 

私の心を乱したアドリア海の旅。

しかし、それは刺激だけの旅ではなかった。

クロアチアは6回目なので、馴染みのある場所が多く、心が落ち着くこともたくさんあったのだ。

それは、「慣れ親しんだ風景」だった。

私は「慣れ」を薬として使ったのだ。

 

多くの人は刺激を求めて海外を旅するわけだから、2回目だと刺激がなく、つまらない、飽きた、3回目はもういいや…という人が多いと思う。

そんな心情の場合、「慣れ親しんだ風景」という感情は、まったく味わえることができない。

まさにその人たちにとって、「慣れは毒」だった。

 

佐々木さんをはじめ、ミニマリストはモノを買うという刺激を求めない。

だから、彼らにとってはすでに、「慣れは毒」ではない。

むしろ、数少ない持ち物に、存分に慣れ親しむ。

 

風景だって一緒だ。

もし海外に住んだらどうだろう。

はじめて借りた家から駅までの道のりは、最初は刺激的だろう。

しかし、2週間もすれば慣れ、飽きる。

それでも毎日歩く。そして、それはやがて、あなたの心を落ち着かせる、慣れ親しんだ風景になる。

何気ないクリーニングショップの店構えだって、毎日、ちらりと目にする儀式となる。

 

とすると。

「住む」とは、習慣を作ることなのか。

刺激をなくすことなのか。

「慣れ」という仕組みを使って、刺激をミニマル化することなのか。

 

風景に絞って考えてみる。

日本の風景に刺激はもう少ないかもしれない。

慣れて、つまらないと、今までは感じていた。

それは、住んでいるからだ。

旅をすると、住んでいない風景を見る。

その刺激が楽しい。

憧れる。

 

しかし、今書きながら、自分の住む国の、住む街の、一つひとつの風景が私の心を落ち着かせているのかと思うと、ありがたく思えてくる。

住むことでしか味わえない、成立し得ないものがある。

 

私は今、東京の吉祥寺が落ち着きの象徴となっているはずだ。

長く住んでいるこの街の風景に、刺激はない。

でも、駐車場までの、ある小さな路地は、必ず通る。

別の道でもいいのだが、なぜかその慣れた道を選ぶ。

落ち着きたいのだ。きっと。

 

成田から吉祥寺に帰る高速バスからの風景にだって、少しほっとする。

東京タワーが見えてくるとき、ほっとする。

ぐるぐると高速道路の円をバスは走る。

慣れた都心の風景がガラスの向こうにある。

高速を下りて井の頭通りに入ると、もう家はすぐそこだ。

 

 

 

 

 

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この記事を書いた人

『最小限主義。』、写真集『ジヴェリ』『パールロード』他(Rem York Maash Haas名義)、旅ガイド『スロウリィクロアチア』他

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