「数字」のミニマリズム
佐々木典士

「数字」のミニマリズム<br />佐々木典士

みんな算数ができるから、数字はとっても強力でわかりやすい。
だけど、数字に頼りすぎるのは危険でもある。

「位置財」という言葉がある。収入、物的な財、名声といった財産のこと。
これらは数字になりやすく、誰かと比べやすいから全体での自分の位置がわかる。
これらの財は、幸福とは期待されているほどは関係がないことが様々な研究で明らかになってきている。だが、ついつい人はそれを求めてしまうことから「フォーカシングイリュージョン」とも呼ばれる。幸福だと信じて、ついつい求めてしまうのに、残念ながらほとんど幻想に近いというわけだ。

収入=お金。お金と交換できる物的な財、つまりはモノ。
これらは数字と直結するから、わかりやすい。

1000円と1万円は簡単に比べられる。10倍だ。だが1000円のお年玉をもらった小学生と、1万円のお年玉をもらった高校生に追加の1000円を渡したとき、どちらが喜びが大きいかは誰でもわかるだろう。増えれば増えるほど、喜びは薄くなっていく。事実として、幸福はあるところまではお金でちゃんと買える。だが、その「あるところ」は想像以上に下の地点にある。

1万円のカバンと10万円のカバンも簡単に比べられる。高価なカバンには、1万円のカバン10個分、10倍の価値がある。だが、「ぼくモノ」で散々指摘した通り、人の喜びの感情に10倍もの差はない。そして手にしたモノには、想像以上のスピードで慣れていってしまう。他人から見れば羨ましくても、本人は飽き飽きしていたりする。

みんな算数を習ったから、数字になると人と比べやすくなる。2倍だ、3倍だと簡単にわかる。そして数字で他人と比べると自分の相対的な「位置」もわかる。週刊誌を見れば、平均年収や、偏差値や、ランキングがみんな大好きなことがわかる。わかりやすい数字にして人と比べ、自分の位置を知るのだ。

収入や、モノだけでなく、名声や社会的な地位もしばしば数字になる。
Twitterのフォロワー数、いいね!の数、PV、つながっている友達の数。

「KLOUT」というSNS上での影響力を測ってくれるサービスまである。ドラゴンボールのスカウターみたいだ。子供の頃、フリーザが53万の戦闘力なら、5万の戦闘力の10倍強い気がした。53万人のフォロワーがいれば、自分の何百倍も、何千倍も社会的な価値がある人物? 

残念ながら、名声や社会的な地位といったものもあまり当人の幸福とは関係がないようだ。ぼくは本を書いて、メディアにもたくさん出た。位置で言えば、前より上がったかもしれない。たくさんの部数が売れ、フォロワーも増えた。だが、それがぼくの幸福を「底上げ」したかと言えば全然そんなことはない。友達に会えば「すごいね」なんて言われたりする。ほんの数秒、確かに嬉しいかもしれない。その数秒を足した合計の、どれだけの時間ぼくは喜んでいられただろう?

数字にするなら、自分の中にしかない数字「喜びの持続時間」を計るべきだ。ぼくは自分のためにモノを買ったとき、それがどれぐらいで当たり前になり、喜びが減っていくか、自分の中のストップウォッチで計ることがある。本当にどれも驚くほど短い。

ほとんど同時に、自分用に1万円のシャツと、プレゼントするために1万円のブラシを買ったことがある。自分のシャツはすぐに当たり前のものになった。同じ1万円なのにプレゼントしたものは今でも嬉しい。

誰かと一緒に「経験」をしたとき。旅に出て美味しいご飯を共にする。何度思い出しても楽しく、喜びが長続きする。それはもう客観的に計れるものではなくなり、「自分だけの数字」になる。

わかりやすい算数と違い、人の心は非線形に、なんとも非合理な動きをする。
だから、もし数字に悩まされることがあっても、あまり気にしなくていい。その数字は見た目より弱々しい。そして憧れの数字を手に入れたとしても、思った以上に脆い。客観的に比べられるものではなく、自分が本当に喜べるものを意識するべきだ。

客観的な数字は確かに便利だ。だがその数字も一度自分の中に飲み込んでしまうと、別のものに消化され変わってしまう。

 

ぼくたちは、客観的なものよりずっと不便で、もっと比べにくいものでできている。