1年後のミニマリズム①
〜陰と陽〜
佐々木典士

 「ぼくたちに、もうモノは必要ない。」が発売されてから、今日でちょうど1年が経ちました。オギャアと生まれてからの1年に匹敵するぐらい、ぼくにとっては濃く、とてもとても長い1年でした。

不必要だと思うものは手放し、自分なりのミニマリズムが完成したと思えてからも、1年と少し。その1年後の、中間報告のようなものをしたいと思い綴ります。

恋愛映画と「ぼくモノ」

 「ぼくモノ」は自分のミニマリズムを進めつつ、それが完成したと思えた直後に脱稿した本です。「ぼくモノ」にも書いたとおり、「増やす」ことだけではなく「減らす」ことも刺激に満ちています。

だから、それは少しばかり恋愛映画に似ています。映画の中でさまざまな困難を乗り越え、ラストシーンで結ばれるカップル。「ぼくモノ」はそのラストシーンで終わっていると言えるかもしれません。

劇的に結ばれたカップルの盛り上がりは、やがて落ちつき、またケンカをしたり仲直りしたり、まったりしていきます。「減らす」ことは驚くような変化がありました。その変化も次第に日常の風景となっていった部分もあります。

環境は10%しか幸福に影響しない

幸福度=遺伝子+環境+行動
という式があります。そのうち遺伝子は50%、環境は10%、行動が40%を占めるという説があることは、「ぼくモノ」にも書いたとおりです。だから環境である「モノが少ない」ということもこの説に従えば、ただの10%の要素でしかない環境です。

ミニマリストの部屋にも、ミニマリストの生活にもやはり「慣れ」がやってきます。

感謝は、いつもと同じものを違うものとしてみることです。感謝が「慣れ」に対しての有効な手段だというのも本で書いた通りですが、その感謝も忘れてしまうことがありました。

減らしていくと、ただ生活をしているだけで、生きているだけで、聖なるものを感じることがたびたびありました。そうして煩悩から金輪際お別れできたと思っても、また欲が頭をもたげてきたり。

1歩進んでは11歩戻らざるを得なくなり、ようやく10歩進んでまた9歩戻るところでようやく踏み留めるような。そんなまだまだ、遠回りするしかない過程にあると感じます。

陰と陽とミニマリズム

沼畑さんとは、陰と陽という話をしたりしました。
「モノをしっかり持っている人がいるからこそ、ミニマリストと名乗れる人たちがいる」
というような話です。陰と陽については、まだ詳しいことが語れません。
ただ陰と陽を抜いて考えることは、昼と夜のどちらが良いかと考えたり、北と南のどちらが優れているかと考えるようなものだということだけは言えます。

冬があるからこそ、春の陽気が嬉しくなる。
仕事の負荷があるからこそ、休暇が楽しめる。
都会が慌ただしいからこそ、地方の魅力が際立つ。
最近はそんなことばかり考えています。

ここまで書いていると、なんだか落ち着いた側面ばかりに目が向いてるようですが、もちろんそれだけでもありません。

ミニマリズムとバランス

陰と陽があるとするならば、やはり世の中は、傾きすぎていたのだと思います。
ミニマリズムはそのバランスを取り戻すためにやはり必要だったと思います。

選択肢はたくさんあっていい。
「多い」だけではなく、「少ない」という価値があってもいい。
ミニマリズムが、当たり前に選ばれていい価値観のひとつとなってほしい。
そんな気持ちでこの1年活動してきました。

しかし時間が経ち、ミニマリズムについてある程度、客観的にも眺められるようになってきました。

そうして、ぼくはマキシマリストも、ミニマリストも同じぐらいいいよね。同じぐらいに価値があるよね。という相対主義者になったのでしょうか?

「まあ、なんでもほどほどが一番ということで」

という何度も繰り返される結論、ぼくはこれで席を立つこともしたくないのです。相対主義ではなく、改めて多元的な考え方についてもっと学びたい。

ぼくがしたいことは、バランスを崩して勢力図を塗り替えることではありません。
世界を成立させている、バランスの巧妙さについて、今はもっと知りたいのです。

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この記事を書いた人

作家/編集者。1979年生まれ。香川県出身。『BOMB!』、『STUDIO VOICE』、写真集&書籍編集者を経てフリーに。ミニマリスト本『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』は25カ国語に翻訳。習慣本『ぼくたちは習慣で、できている。』(ワニブックス刊)は12ヶ国語へ翻訳。