「所有」から「利用」へ
佐々木典士

ミシンを買った。

いちばんシンプルなもので11000円。

 

 

目的は、車中泊用の断熱&目隠しのシェードを縫うため。

家庭科の授業で使ったかもしれないが、ぜんぜん使い方を覚えていない。

 

 

糸を説明書をガン見しながらセットしていく。

糸がからまりまくったり、ヘタクソすぎたところから段々コツがわかってくる。

冬、夜なべをして縫い物をするというのはいいものだ。

 

 

このミシンは、もうひとつふたつ仕事をしてもらったら手放そうと思っている。

箱付き、保証書付きの美品。メルカリで売れば、おそらく8000円ぐらいで売れるのではないだろうか。

 

 

そうすると、差額の3000円で今回買ったのは、もはやミシンではないという気がする。ミシンの「レンタル料」を払ったのであり、ミシンを使えるようになるという「スキル獲得」に3000円払ったのではないだろうか。

 

 

所有から共有へ。

所有から利用へ。

 

 

買ったときの値段と、売ったときの値段が小さいのが個人間売買のメリットだが、値段は自分で付けられるので、当然安くすることもできる。

 

 

すごい美品だけど、ミシンがとっても楽しかったから5000円でいいよ、3000円でもいいからこの楽しさを体験してほしいよ。とも思う。社会へ対してドネーションをするような気持ち。安く買った人に得してもらって「掘り出し物を見つけましたね!」とこちらも嬉しいような気持ちも生まれる。差額で買うのは、その嬉しい気持ちかもしれない。

 

 

 

最近、ぼくが「持っているモノが多いとか、少ないとか一概に言えないんじゃないの?」と思っているというのは、こういうところから来ている。クローゼットには常に10着しかないが、1シーズンで30着メルカリで回している人はモノが多いのか、少ないのか? こういうことができるようになったら、一瞬だけを切り取ってモノが多いとか少ないとか言うことにあまり意味はないのではないかと。

 

 

先日環境の話で書いたように、輸送にもエネルギーは当然かかっているので、そこにお金を払いさえすればいいという問題ではないし、モノをあまりにも多くぐるぐる回すのはぼくは反対だ。しかし、所有の形態はもう変わりつつある。

 

 

ミシンを一週間で手放したとして、ぼくはそれを持っていたのだろうか?

誰かからお借りして、返しただけだろうか?

 

 

稼いだお金も集めたモノも天国へは持っていけない。

人がこの世を去るとき、すべてのモノは次へと手渡される。

 

 

モノもこの身も、浮世でほんのひとときお借りしているだけ。

そんなことも、ふわふわと考える。

 


買ったのはこちらのミシン。機能も見た目もシンプル&ミニマル。

 ミシンも瞑想のようだと思ったし、手作りは楽しい。

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この記事を書いた人

作家/編集者。1979年生まれ。香川県出身。『BOMB!』、『STUDIO VOICE』、写真集&書籍編集者を経てフリーに。ミニマリスト本『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』は25カ国語に翻訳。習慣本『ぼくたちは習慣で、できている。』(ワニブックス刊)は12ヶ国語へ翻訳。