記憶ともう一度出会う
佐々木典士

ぼくがスマホを手にしたのは、2012年のこと。それ以降は出来事の記憶が以前より残っていると思うようになった。家族で話をすると、昔どこ行った、あそこに旅行行った、という話になるのだが全然覚えてなくていつも申し訳なく思う。せっかく連れて行ってくれたのに。

理由としては、まず自分で計画してない旅は記憶に残りづらいということ。お任せの旅と、自分で苦労して交通機関を調べ、目的地をつなげた旅とは地名などの記憶も全然違う。

 

そしてスマホ以降の記憶が残るようになったのは、ひとえにスマホのアルバム、カメラロールを見る機会が多くなったからだと思う。写真は日付と紐付けられているので、それが2015年に撮った写真だとかいうことはすぐにわかる。そして「あれいつだっけ?」とかなんだかんだ検索する機会が多い。押入れの奥にあるのではなく、いつでも取り出せるポケットの中にアルバムがあるというのも大きい。単に復習できる機会が増えたのだ

書かなければ忘れる

 

書くことでも記憶に残りやすくなる。

まず書くときに思い出し、出来事を自分なりに整理することになる。

 

起こったことすべては書けない。授業を受けたら、大事なポイントをわかりやすくノートにまとめるような感じ。書くときに手を動かしたり、キーパンチしたりというのも記憶の定着を助けていると思う。

 

 

誰かに伝える前提だとなおさらだ。映画評や書評なども、このブログに書いたもののほうが記憶に残っていると感じる。人に伝えるべく整理されているということは、自分にとっても整理されているということ。

 

 

たとえば今まで映画も数千本は見ていると思うが、大部分は感想を残してなくて覚えてないものが多い。記憶に残っているどころか、もはや無のようになってしまって、Amazonプライムでもう一度見始めたりしてしまうこともある。内容は覚えてなくても「これ見たことあるな」ということだけはわかるので、脳はやはりすごいなと感心したりもする。

 

 

映画批評家といえば、いろいろ映画の細部を覚えていてすごいなと思うが、やはり書くことで定着されているのではないか。思い出しながら書き、書いたことでまた見返しやすくなる。

 

そして、書いても忘れる

 

残念なことに、書いても忘れる。

これは本当に自分が書いたのかと思うこともよくある。

自分が書いた証拠は、自分の署名が確かにあるだけ、という感じ。

 

 

書かないと忘れる。

書いても忘れる。

しかし書いておくと、思い出せる。

正確に言うと、思い出せているわけではなく、もう一度出会いやすくなるのだと思う。

 

 

溢れる情報の中で、同じ情報ともう一度出会うことはまれだ。「世の中の情報すべて集めた図書館」があったとして、その本棚には自分が書いたものも、他の作者が書いたものと同じようにズラッーと並んでいる。

 

 

そんな膨大な本棚を前にすると迷ってしまう。そんなときにいちばん馴染みのある「自分」という作者の名前を見つけたら、手に取ってみようかと思える。舞台裏をよく知っていて、楽屋オチがいちばん楽しめる読者は自分だ。こうして、忘れていても、もう一度出会いやすくなるのではないだろうか。

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この記事を書いた人

作家/編集者。1979年生まれ。香川県出身。『BOMB!』、『STUDIO VOICE』、写真集&書籍編集者を経てフリーに。ミニマリスト本『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』は25カ国語に翻訳。習慣本『ぼくたちは習慣で、できている。』(ワニブックス刊)は12ヶ国語へ翻訳。