ミニマリズムと「自分」の帰還    佐々木典士

昨日、仕事が予想以上にはかどり、時間もできたので 沼畑さんに連絡を取り、夕食を一緒にとることになった。 (以前のぼくは決してやらなかったことだ。相手の置かれているかもしれない状況を過剰に想像して、気を遣って「当日連絡して会う」ということを自分からはほとんどしていなかった。自分のしたいことにもっと忠実になる、というのは今のテーマのひとつになってきている)

 

話したかったのはもちろん、ミニマリズムについてだ。 それははとても刺激的だった。

沼畑さんとのいままでの会話は、沼畑さんが詳しい海外の最新のライフスタイルや実践しているカルチャーについて、ぼくがふんふんとひたすら聞く。 そんなスタイルだったと思う。

 

触発されることは多くあっても、それが自分の何かとはっきりつながり、ぼくが積極的に何か発言する、ということはあまりなかったように思う。

 

昨日の晩はそうではなかった。(テレコを回しておけばよかった。) 自分の知識をひけらかしたい、とか 聞いてあげられる理解力のある人と思われたい、とか そろそろ自分の話も聞いてわかってほしい、とか 無駄な「欲」が会話に入り込んでなかった。

 

お互いが知らないことを正しく交換する。 同じことを考えていることへ驚く。 「対話」と呼べるものだったと思う。

 

なぜだろう? ミニマリズムを意識するようになってから、 頭にかかっていた「もや」が少しずつ晴れていくの感じている。 思考が明晰になり、五感が澄まされていくのを感じている。

 

例えるなら今までは、ずっと教養学部にいたようなものだと思う。

 

名作だから読み、すでに評判になっているものを見聞きしてきた。

偉大な誰かについて。そして偉大な誰かについての、偉大な批評家の意見について、学んできた。

 

それを知識として知ってはいても、自分で考えたことではないのですぐに頭の引き出しからは取り出せない。 自分の血肉ではないから、会話でも何も出てこない。 相手の話をひたすら理解するように努めていただけだ。 バカだと思われたくなくて、口を閉じる。 発言する機会が少ないから、ますます話下手になっていく。

 

それが少しずつ変わってきていると感じる。 モノをミニマルにしていくと他人の目線が気にならなくなる。

 

簡単に言えば、自分のためではなく、 人の目線のためにあるモノを捨てることになるからだ。

 

モノをミニマルにしてくなかで、情報についても ミニマルを意識するようになった。 SNSはもともとやっていなかった。いまは無駄なニュースも ゴシップも大好きだったお笑い番組もほとんど自分に入れない。

 

他人が作ったものや、他人についてあれこれ解説をしない。 他人の声でなく、自分のなかで沸き起こってくる声を信じる。

 

そうしていまぼくが感じているのは「自分」の帰還だ。

 

沼畑さんと話していていちばん驚いたのは 2人ともあれほど好きだった映画を、最近はあまり見なくなってきている。 ということだった。

 

以前のぼくは、何か具合が悪いなと思うと、 そういえばしばらく映画を見ていない、ということに思い当たることがあった。 刺激があり、感動でき、深く考えさせられる。 自分の問題を忘れられる2時間が、ぼくの精神を保っていたらしい。

 

映画はもちろん今でも大好きだ。 ただ少し付き合い方が変わった。 見てない名作がたくさんあるので、勉強のために見る。 とにかく量をたくさん見る。映画好きを自称したいし、映画好きと出会ったときにはあれを見た、これを見たという競争心も湧くからだ。

 

以前は映画とそういう付き合い方をしていた。そして自分を忘れたかった。 今なら自分の考えているテーマについての映画を選ぶ。どうしても見たい映画だけを見る。 選ぶのはこちらだ。

 

偉大なものがすでに出し尽くしているせいで、 ついつい自分には何もできないと感じてしまう。 思いついたアイデアがすでに先行されていることに気づきそこで立ちすくんでしまう。他人の目線を意識するあまり、失敗することに敏感になる。 自分の考えを、思いついたのが自分であるという理由で退けてしまう。

 

偉大な他人についての解説よりも大切なこと。

 

それはつたなくても、自分でやりはじめてみることだ。

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この記事を書いた人

作家/編集者。1979年生まれ。香川県出身。『BOMB!』、『STUDIO VOICE』、写真集&書籍編集者を経てフリーに。ミニマリスト本『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』は25カ国語に翻訳。習慣本『ぼくたちは習慣で、できている。』(ワニブックス刊)は12ヶ国語へ翻訳。