「コンテンツを消費ばかりしてると駄目」と言い続けてきた。
オンラインゲーム中毒になったり、ストリートビューを見て海外の町に「行った気」になったりしていたから。
ミニマリズムを実践して、そういった過度なコンテンツ消費生活は終わり、「実際の経験に勝るものはないのだ」と主張した。
でも。
コンテンツ消費にも魅力が溢れていると、あることがきっかけで思い直した。
スウェーデンのストックホルム郊外、湖近くの森の中、赤い壁の一軒家に住む切り絵作家のアグネータ・フロック。
すぐ近くに湖があることを人生の歓びとして、晴れた日にはピクニックをし、広い庭の木々を眺める。
経験型として素晴らしい日常がある。
同時に彼女は、切り絵を作る。草木に変身した少女が、ダンスをする。
ユニコーンに乗って空を飛ぶ。
想像力を使うことを、楽しんでいる。
彼女のそういった日常を知ったとき、たまたま娘は家にいた。
家で、想像したキャッスル(城)について娘は考えている。
「白いモンスターがいる!」
おたふく風邪になって一週間も保育園を休み、外にも出かけられない。
そのせいで、家ではひたすら想像遊びをしていた。
「そこに城があるよ。なんとか山を登って辿り着かないと!」
と言うと、娘は怖がって行こうとしない。白いモンスターがいるからだ。きっとアナとエルサの世界を思い出している。
子どもの想像力は凄い。家の外に大好きなティンカーベルが飛んでいると言えば目を輝かせるし、アンパンマンジュースをこぼして「アンパンマンが泣いてるよ」と言うと娘も本気で泣く。
家の外に海がある山があると言えばそう思うし、サンタや妖精の存在も今なら信じられる。
大人は違う。信じられないものがいっぱいある。
子どものころは、幽霊が本当に怖かった。マンションの暗い廊下の先にある影が、幽霊にしか見えなかった。
ドラゴンクエストをやれば、中世の騎士になれた気がした。
今は、夜に家で一人でいても幽霊の存在は感じない。RPGもやらない。
そんな乾いてしまった私が、アグネータさんの想像力と実際の森や湖を楽しむ生活を見て、想像力はいつまでも偉大なのだと感じた。どちらも楽しむバランス感覚がいい。
大人になると想像力はミニマリズム化され、見えないものは見えないのだと断言してしまう。リアリズムを追究する。大人になって想像力を駆使する毎日は、馬鹿にされるかもしれない。私が植物になったことを想像したとして、コインが出てくるわけではない。だから私は、ゲームなどのコンテンツを否定したのかもしれない。
子どもの世界でも、否定の時期はやってくる。いつまでもサンタがいると言い続けると、やがて同級生に笑われる。
そうして、娘の世界からサンタは消えてなくなる。
だけども、親から率先してリアリズムの世界に子どもを導く必要はない。
娘が想像力を駆使して、見えないものも信じ、家の外に何かがいると疑うことなく想像することができるのは、今だけだ。
空を飛び、海に潜る。
妖精の飛ぶファンタジーの世界に生きることもできる。
リアリズムがやってくるのは何年後か。それまで、思う存分、その力を解放してあげようと思った。
コンテンツは想像力を使うもの
私が否定したストリートビュー。
「海外に行った気になれる」というコンテンツが、海外旅行の勇気を削っていると私は考え、大好きだったストリートビューを否定した。
なので、娘に見せることもなかった。
それが、今回の休み中、娘がお城を観たいというので、ストリートビューでヨーロッパのお城を「歩いた」。
初めて観る実写の城に、きゃあきゃあ言って喜んでいた。
もちろん、実際に行ってみせるのが一番いい。
でも、ストリートビューでみたお城は、次の想像力の糧になるかもしれない。
私が昔ハマッたサッカーゲーム。
やりすぎだったけど、サッカー選手になるという想像力がそこにはあった。
車のレースゲームも、実際にはレーサーになれない人がほとんどだから、夢の世界を与えてくれる。
バーチャル動画。
Youtubeで360 Experienceと検索すると、iPhoneなどの対応機種で車に乗って360度見渡せたり、スターウォーズの世界を体験できたりする。
楽しい。
子どもがそういったものに夢中になり過ぎるのは、親としてはやはり抵抗があるだろう。でも、自分が子どものころに何故ドラクエをやったのかどうかは、当時の親にはわからなかったはずだ。あのBGMですぐにでもあの世界に戻れるような感覚。
それは、「子どものころ」にあのゲームを体験したから。
小学校のころ観た映画はどれも、心に深く刻まれているのに、大人になってから観るファンタジー映画には、いまいちハマれない。これはきっと、大人になってしまった私自身の問題だ。
もう一度、想像力が欲しい。
空になった部屋では、むしろ想像力は働きやすくなるから、ミニマリズムとの相性はいい。
マテリアル・ポゼッション(物質的所有)としての本もDVDも捨ててしまったけれど、電子書籍やドラマは頻繁に見ているし、映画館にも行っている。
結局、コンテンツ消費のエネルギーはおそらくそれほど変わってない。
空の部屋でむしろ本をより一層読みたくなっているのは、想像力が使いやすくなったからかもしれない。
いずれにしろ、想像力は、大人になってミニマル化した。
想像能力が、感覚がミニマル化した。
もう一度、無限大に向けて解放できるかどうか。
やってみる。