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偶然を引き受ける 佐々木典士

ぼくは今のぼくに結構満足している。そして今のぼくがあるのは、最初のミニマリストの本を書いたことが大きい。なぜそれができたかと言えば、沼畑さんが書いた記事で「ミニマリスト」という言葉を他の人よりも早いタイミングで知ったから。

沼畑さんと知り合ったのは、ぼくが以前所属していた出版社ワニブックスで編集者として働いていた頃。小林涼子さんの写真集を担当するカメラマンとして出会ったことがきっかけだった。

実のところ、他のカメラマンにお願いすることで決まりかけていたのだが、ヨーロッパの観光局とも仕事をしていてつながりのある沼畑さんを事務所の方に紹介され、ロケ地も含めて写真集の方向性は180度変わっていったのだった。

ぼくは編集者として出版社に在籍しながら、著者としてミニマリストの本を出したのだが、これはかなり異例のことだった。もちろん反対もあったが、それができたのは、ワニブックスが大きすぎない会社だったからだと思う。もしぼくが就職活動の時に志望していた大手の出版社に入社できていたとしたら、これは許されなかったのではないかと思う。

ぼくがワニブックスに入社したのは、前の出版社で人間関係がうまくいかず、逃げ込むように門を叩いたことがきっかけだった。前の出版社に入社したのは……と数奇な縁は続いていく。

つまり今のぼくがあるのは、運や偶然の力によるところが大きい。そしてしばしば、自分が希望していたことが叶わなかったからこそ、叶ったと思えることがたくさんある。

ぼくが書いたミニマリズムも習慣の本も、自分の力で何かを組み立てようとする試みだったと思う。確かにぼくの生活はあまりに混乱していたので、コントロールしてそれなりの秩序を、自分の手に取り戻す必要があった。

一方で、振り返って見るとぼくの人生は自分でコントロールできないものの方にむしろ多くを負っている。運、偶然、縁、そういうものに対して敬虔な気持ちになる。

そして自分が何かを手にできたのは、たまたまである、と思えることは想像力の源になる。何かうまくいかない人を見たときに、その人と自分を分かつのはただの偶然だったと思えば、その偶然がもたらした結果を、もう少し平らにならそうかとも思える。

でも、自分の力は大したことがないのだから、すべて偶然に任せればよい、という考えには与しない。準備ができていなければ、たまたま廻ってきた偶然を取りそこねることもある。

最近、偶然を研究した九鬼周造を紹介した2冊の本を読んだ。意図したわけでもなくこれも偶然だ。

 宮野真生子、磯野真穂 『急に具合が悪くなる』(晶文社)
 中島岳志『思いがけず利他』(ミシマ社)

後者の本で九鬼周造のこんな言葉が紹介されている。

人間としてその時になし得ることは、意志が引返してそれを意志して、自分がそれを自由に選んだのと同じわけ合いにすることであります。

【九鬼1991:80-81】

大きな力を持っているのは偶然だが、人はそれを過去に引き返すように意志して、引き受けることができる。ほとんど偶然だが、さもそれが必然だったかのように受け取ることができる。

ぼくがミニマリストの本を書くとき、頭に浮かんだのはこんなイメージだった。ビリヤード台に1000個ぐらいのボールが置いてある。誰かが打ったブレイクショットは複雑怪奇に跳ね返り、ひとつの玉がビリヤード台を飛び出して、たまたまそこを通りかかったぼくの後頭部に当たる。ぼくは後ろを振り返り、あたりを見回した。

「え!? まさかぼくがやらなきゃいけないんですか??」

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