やっと、『ストレンジャー・シングス』のシーズン4を観終わった。
休み休み、時々存在を忘れたりしながらも、長い時間をかけての到達。
映画や単発ドラマでは味わえない、圧倒的熱量の感動を受けて、朝はちょっと頭痛がしたくらい。
シーズン1は自分のペースが悪く、何度もやめようと思った。
シーズン2もそれほどペースは良くなかった。けど、後半、一気に面白くなって、シーズン3の始まりはもう楽しかった。
シーズン4もちょっと時間がかかった。いつもこのドラマはスロースターターなのだ。
最初、何も起こらないし、何が起こってるのかよくわからない。
本当に少しずつ少しずつ、3つか4つのストーリーが同時進行していく。
そしてシーズン4ではシーズン1からの謎が一気に後半に明かされて、脱帽していく。
そんなドラマ体験の中で、シーズン4は特に、絶望的なシーンが多い。
太った酒ばかり飲んでいた警官が、4ではソ連の監獄にいて、その脱出を巡って絶望の繰り返し。
そんな彼を観て、こちらも落ち込んだり、絶望感を味わったりするのだけど、最終的に
「生きててよかった」
と心から思える。
それが、彼だけではなく、彼に関係するまわりの人々も同様に、「生きててよかった」という思いになる。
「生きててよかった」つまり、「生きてさえいればいい」というのは、現実社会ではなかなか通用しないんじゃないかと思ったりもする。
じゃあ自分がいろいろ失敗して、犯罪を犯したり、どん底になっても「生きていればいい」と自分の思えるのかどうか。
「無理だなー」とは思うけど、思わないといけないんだろうな。とも思う。
そういう絶望の経験をしていないから、戦争や災害でのサバイバルを経験していないから、俺には想像力が湧かないのかもしれない。
このドラマでよく語られるのは、携帯電話のない不便さ。この不便さが、ドラマを生む。
一歩間違えると、もう一生会えない。
さらに、それが違う国、ソ連のような国だと、ほんとうに絶望的に救えなかったりする。
会えなかったりする。
地球上には人がたくさんいて、一度連絡がつかなくなると、再び会うことができなくなるというのが人間関係だった。
そこにも絶望があって、生き抜くことにも絶望がある。
そんなドラマに感情を全集中させて、擬似体験をしながら、「生きてるだけで良かった」と涙を流し、
ある人が死んでしまったことにも涙を流した。
感情が疲れていて、頭が痛い。最後となるシーズン5が来るまで、シーズン1から観直します。