このブログを通じて、「人間が誇れるのは何か」ということまで、シンプル化できた。
それは、肩書きやお金ではなく、「綺麗な空を毎日見ているかどうかだけ」というもの。
唐突かもしれない。
「空」なんてどこにでもあり、誰でも見れるものであり、そんなものが人間としての価値だとは。
あまねく世界中の人が持つ「空」の風景。
それでは、人の優越がつけられないではないか…。
そう。
つけられない。
そして、私はこの幸せのヒントである「空」を基準に、今まで生きてきた様々な謎を解いている。
心霊体験も含めて。
心霊体験するほどの半地下暮らし
若い頃の謎。
私は絵描き宣言をして、メゾネットの家を借りた。
半地下の部屋がアトリエ兼寝室である。
私は働きながらそこで絵を描き続けた。
窓がほぼ無いに等しいそこで、一人描き続けた。
結果、私は体を壊し、精神も真っ逆さまに落ちぶれた。
そこでは、心霊体験的なものもあった。
夜寝ていると、上から人が階段を下りてきて、トイレに入る音がした。
しかし、アトリエには誰も入ってこなかった。
夢だったのかもしれない。寝ぼけていたのか。
いや、起きていたような、気がする。
私は、仕事を辞めて実家に戻った。
「遠くへ行きたい」と思っただけで泣けてきたので、アウトだった。
その後「遠くへ行く」ため、日本中を旅して、最後に沖縄の久米島に辿り着いた。
「遠く」で私がしたのは、車で海にでかけて、サーフボードの上でぷかぷかと浮かぶこと。
まだウィンドサーフィンもサーフィンも知らなかった。
その、白い砂浜と青緑の海の上で浮かぶことが、ターニングポイントとなった。
そこで精神が完全復活したのだ。
幸福感に満たされ、それ以後、約20年間精神が弱ったことは一度もない。
「弱音」みたいなものとも無縁となっている。
同時に、どうして幸福感を感じたのか、そのころから問い続けている。
当時はよくわからなかったので、私はとりあえずサーフィンを続け、船の免許を取った。
そういう生活を5年ほど続けたあと、8年間ほどオフィスに閉じこもって猛烈に仕事をした。
オフィスの窓は閉め切っていて、気がつくと外は真っ暗だった。
夕陽も海も、毎日の生活から消えた。
そのかわり、夕陽を眺められる西向きの窓がある家を借りた。
週末は、夕方になるとリビングがオレンジ色に染まった。
窓から海は見えなかったが、美しい渋谷の空が見えた。
私はその後自分の会社を立ち上げ、家で仕事をするようになったので、夕陽は見ようと思えばいつでも見られるようになった。
クロアチアのアドリア海を何度も旅するうち、西に海を持ち、町が夕陽に照らされるのがこの地域の幸福感の秘密だと結論した。
さらに、ミニマル&イズムの投稿を重ねるなかで、知識だとか仕事だとかを取り払い、最後に自分のことを語れるのは、「今日きれいな夕陽を見た」ぐらいのものだと悟った。
そして今、「空」を中心に考えながら、久米島の海の上で幸福感を得た答えを見つけた。
答えは、「広い空の下にいたから」だ。
プラス海、サーフボード。また、ブログで最初に書いたように、「何もしない」から。
40歳になってやっとわかった。
「お天道様が見えなくなるようなことだけはするな」
人は外を歩いていると、上に空がある。
でも当たり前すぎて、誰も見上げない。
それは、求める刺激や欲求を、複雑化しているからだ。
幸福への欲求が、複雑化している。
はるか昔から、人間は外を中心に活動していた。
幸せだったと想像する。
真っ暗な洞穴に入ったときは、どんな気分だったろう。
やがて、外に家を造る。でも、最初は窓はなかっただろう。
暗い。
上海のある地域の路地を歩くと、家の中は昼でも真っ暗だ。
だから住民は路地で生活している。
楽しそうだ。
老人が路地で飼っている小鳥を眺めている。
人間は家を作った。
家がないと、眠れない。
私が日本中を旅しているときは寝袋で寝ていたので、やっぱり疲れた。
旅が終わると、左目のまつげが白くなってしまい、今も白い。
だから家は必要なのだが、人は家に快適性を求めて、家で多くの時間を過ごせるようになった。
しかし、空が見えるような家だったり、テラスがある家ならいいが、そうでない家も都市には量産されている。
最近の窓が大きな家や、高層階の眺めのいい家はいい。
だが、私がアトリエとした半地下の部屋は、どうだろう。
夢かもしれないが、幽霊が下りてくるほど私は病んだ。
部屋のせいだと言ってはいけないと人は言うだろう。
だが、私はそれ以来、部屋の持つ雰囲気を大事にしている。
雰囲気とは、たぶん、太陽光がいっぱい入るとか、空が見えるとか、そういったことだろう。今考えると。
空のことを考えて、ふと思い出した。
滅多にああしろこうしろと言わない私の父が唯一言っていた、あの言葉。
「お天道様が見えなくなるようなことだけはするな」
つまり、牢屋に入るなということ。
空が見えない牢屋牢獄は、そこで生活すること自体が、不幸せなのだ。
窓の少ない家は、「空」の観点からすると、牢獄のようなもの。というのは、過激だろうか。
そこに長く居すぎると、幸福から遠のいていくと、思うのだ。