脳はまず「好き」か「嫌い」かを決めるという。
「なんとなく嫌い」だと判断されれば、
それから「嫌い」な理由を理性で探し始め、
適当な理由が見つかったところで、納得しほっとする。
たとえば書評を書くとして、まず決めているのは
「褒める」か「けなす」か。
大抵それを支える論理は後から考えて生み出される。
そもそも作者が「好き」か「嫌い」かも大きく左右するだろう。
人のことを「嫌い」だと思ったとき
自分が望んでいるものを実現していたり
自分にない部分を羨ましいと思っていたり、
自分の中に同じものがあることを認めたりしているのだが、
それは封をされてしまわれる。
おもしろいのは
・望んでいるものを実現している
・ない部分が羨ましい
・自分の中にも同じものがある
という「嫌い」の理由はそのまま「好き」の理由にもなりうるということ。
「好きの反対は無関心」という有名な言葉があるが、
このことを示していると思う。
「嫌いだけど見ちゃう」という人気ブログは、
この心理を巧みに利用していると思う。
人のことが「嫌い」だと思ったとき、
その理由を頭で探るのではなく、なぜ「嫌い」だと自分が思う必要があるのか。
なぜ「好き」と思ってしまっては自分に都合が悪いのか考えてみる。
これがいいのは、自分が嫌われたときにそこまで深刻にならずにすむということ。
自分が向けられているのは「好き」と大して変わらない気持ちだ。
「好き」と「嫌い」は違うクラスにいるのではなく、隣の席同士。
誰かを「好き」とか「嫌い」と思うことは、自分を知ること。
どちらにしても、自分が目指したい場所を教えてくれる。