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自分は、いちばん身近な他人
佐々木典士

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先日、ミニマリズムの取材があったので

取材先に行くまでの電車のなかで「ぼくモノ」を読み返していた。

 

 

ブログでも何でもいいが何か書いたことのある人なら、

それほど時間が経っていないのに、自分が書いた文章を忘れる経験があるのではないだろうか?

 

「こんなこと書いたっけ? こんなこと考えてたの?」

 

自分が書いたことに助けてもらったり、感心することもある。

 

「ほほう、なかなかいいこと書くやん」

 

本を書く以前は、著者は本に書いている内容はすべて暗記して、

いつでも使いこなせる状態なのかと思っていたが、ぜんぜんそんなことはなかった。

 

『ジョジョの奇妙な冒険』の荒木飛呂彦先生も、2007年頃のインタビューで

 

「ファントム・ブラッド(初期の作品)あたりは他人の作品のような感じがあする。冷静にファンみたいな感じで読めます」

「描いたスタンドやキャラクターも忘れるので、読み返して思い出すことがある。読者のほうがよく知ってる」

 

というようなことを言っている。

 

 

堀江貴文さんとなるともっと過激で、近刊の『多動力』の内容を忘れていることを指摘されると、

 

読み返す? なんで自分のアウトプットを自分で反芻する必要があるの?」

 

とまで言っている。『多動力』も校正で1回読んだだけで、それから1回も読んでいないそうだ。

 

 

ぼくにしても電車のなかで「ぼくモノ」を

「ふんふん、それでそれで?」

と続きを楽しみに読んでいたのだから、世話はない。

 

 

 

形に残してみると、それをどんどん忘れていきながら、新しいことを考えていることに気づく。

半年たつと身体の細胞は、ほぼ入れ替わっているらしいが、そういうことも影響しているかもしれない。

 

 

 

常に変化し続けていて、自分の考えていたことすら覚えていない。

習慣について調べ始めると、自分が取る行動のうちに、無意識のものがたくさん含まれていることもよくわかった。

自分から自然に出てくる「言い訳」もほとんど信用しなくなった。

 

そんなこんなで

「自分はいちばん身近な他人」

だと思うようになった。

 

 

その歴史を全部覚えているわけでも、

身体のメカニズムを把握しているわけでも、

意識をコントロールできているわけでもない。

 

でも、いちばん身近なのに変わりない。

 

 

自分を愛せない人は、他人も愛せない。

とはよく言われるが当たり前かもしれない。

自分も他人なのだから。

他人には優しくするのがいい。

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