もちろん、誰にでも勧められる映画ではない。
映画を見るときは、「たぶんこういう内容のもので、見たらこんな気分になるだろうと想定して見る」ことが多いと思う。
スパイ映画なら、裏切りの心理戦や銃撃戦を楽しみたい。
恋愛映画なら、主人公へ感情移入して、感動して泣くのもいい。
『散歩する侵略者』だって、冒頭でどこにでもある住宅の階段や玄関がむちゃくちゃ不穏に撮られていて、黒沢清監督のホラー映画に親しんできた人ならそれが「始まったな」とすぐにわかる。
でも想定していたものとは全然違った。これぐらい楽しめればいいだろうと勝手に見積もっていたのだが、自分が「こういう映画が見たかったんだ」と気づかされるような映画だった。
宇宙人が人間を侵略しようとする。
侵略のためには、まず人間を理解する必要がある。
理解するために手頃な人間にとりついて、人間から「概念」を奪っていく。
概念を奪う前の宇宙人は、人間の形はしているが、まるで話は通じない。
人間と同じ「概念」を持っていないからだ。
たとえば所有の「の」を奪う前の松田龍平は、勝手に知らない人の家に上がりこんでいこうとする。
「所有」、「家族」、「仕事」、「自分と他人」などの概念を奪われた人間がどうなるのか?
というのは見どころのひとつでもある。
「悪意」のない宇宙人
侵略といっても、そこに「悪意」や「恐怖を植え付けよう」と意志ははなく、
宇宙人を演じる高杉真宙や恒松祐里はどこまでも自然体でカラッと乾いている。
宇宙人は、人間と同じような「善悪」の概念もまた持っていない。
こういう「何を考えているかわらかない、まったく話の通じない人」が黒沢監督の映画にはよく出てくると思うが、それが本当に気持ちいいのは、日常で他人の意図をわかりやすく推測したり、自分と同じような動機で相手を考えてみたりすることに慣れきってしまっているからか。
「自分が感じている意識は、果たして自分の主人なのか?」というのは次の本のテーマのひとつでもあるので、そういう点でも興味深く思えたのかもしれない。
映画は豊かであってかまわない
しかし、この映画のあらゆる点から楽しめること。
民家や工場や、駐車場や草むらのロケーションを見るだけでも楽しい。
道端を歩いているサラリーマンや喫茶店の後ろで座っているエキストラの配置だけでも、
「そうだよなぁ」という説得力がある。
「トウキョウソナタ」のプジョー207ccはこれしかない、という車で最高にかっこよかったが、
今作での黄色いフィットもこれしかなくて買いに走るレベル。
宇宙人にしか見えない高杉真宙、恒松祐里といった新しい才能に出会えること。
フロントガラスを拳で突き破ってから撃つという銃撃。
恒松祐里のアクションシーンは美少女と銃という「キック・アス」みたいにだって楽しめる。
「奥田民生になりたいボーイと、出会った男すべて狂わせるガール」の水原希子のお尻はそれ目的で撮っていていいに決まっているが、そうではない長澤まさみの脚と胸と足指! に勝手に見とれたっていい。
「ダンケルク」の戦闘機と歩兵よりも、今作の戦闘機と長谷川博己のほうが手に汗握って見られる。
黒沢監督は「映画は豊かであってかまわない」ということを言っていたと思うが、まさに豊かな映画だった。
侵略される現実
「概念」を奪われたあとの人間はその場に一瞬崩れ落ちるが、映画館で見終わったあともそんな感じになる。いい映画を見たあとは、現実が映画に「侵略」されて、今までと違って見えたりする。
帰り道、その辺の路地から高杉真宙が出てきそうで怖かったし、車で宇宙人を轢き殺してしまったりするのではないかと、いつもより運転に注意しながら家に帰った。