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スピノザとニンテンドースイッチ
佐々木典士

おもしろいゲームは何時間も続けてやってしまうので、時間泥棒である。
こうなると「ゲーム=悪い」と言いたくなってくる。しかし、それだけでいいのだろうか?

ぼくたちは習慣で、できている。」では、やめるべき習慣をジャンルで決めつけることはできないと書いた。たとえばゲームでもプロゲーマーの梅原大吾さんのように、プレイごとにメモを取り、あらゆる方法を試し、フィードバックしていく。そんな真剣な取り組み方は、まさにプロのアスリートと変わらない。人生のすべてをそこから学んだと言えるようなものなら、どんな娯楽にも価値はあるのだろう。

良いか悪いかは人による。そして、自分にとってゲームはそこまで徹底してやってきたものではない。この「人による」「自分にとって」という言い方をもっとすっきりとさせられないものかと思っていた。

善悪の起源は「組み合わせ」

 

そこでスピノザの登場である。今放送中の「100分de名著」のテキストで國分功一郎さんが大変わかりやすく解説してくれている。キーワードは「組み合わせ」である。

自然界にはそれ自体として善いものとか、それ自体として悪いものは存在しない。スピノザの『エチカ』からこんな言葉が引用されている。

(中略)同一事物が同時に善および悪ならびに善悪いずれにも属さない中間物でもありうるからである。例えば、音楽は憂鬱の人には善く、悲傷の人には悪しく、聾者には良くも悪しくもない。(第四部序言)

音楽は落ち込んでいるような人には良く、悲しみに打ちひしがれているような人には聞きたくもないものであり、耳が聞こえない人によっては善くも悪くもない。

國分さんがここで例としてあげているのは「鼻水の薬」。鼻水が出て困っている人には善いもの。しかし鼻水の薬は涙腺や唾液腺の分泌を抑えるので、なんでもない人が飲むと喉が渇いて困ってしまうもの。

ぼくがここで思い出したのはカクレクマノミ。毒のあるイソギンチャクを住処にしているが、カクレクマノミは毒に耐性がある。つまりイソギンチャクはカクレクマノミにとっては善いものであり、その他の生物にとっては悪いものである。

自然界の個体はすべて完全で、イソギンチャク自体は善いも悪いもない。ただ他の生物と組み合わさったときにはじめて善悪が発生する。

人自体も変質する

 

善悪はなく組み合わせの問題。ゲームに置き換えてみると、自分と組み合わさったときに良くないものになってしまう。たとえばぼくの条件は

・何時間も続けてやってしまう
・独身&フリーランスで誰からもそれを咎められることもない

というようなものがあり、それらとゲームが組み合わさると良くないと感じる。別の有益なことに時間を使いたいと思ってゲームから離れたりするわけだが、もっと高い生産性を保ちつつ、別にゲームぐらい適当にするよという人を見ると自分なんだかなぁと思うこともある。

組み合わせなので、ぼく自体の条件が変質することもある。たとえば甥っ子たちと年末にするゲームは終わった後も後悔を感じるようなことなく、楽しいものである。

「ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド」はぶっ続けでやってしまうのでぼくは慌てて売ったが、大変な完成度を持ったゲームだと思う。その秘密の一端を明かしたこんな記事がある。「ゼルダの伝説 BotW」にバグが少ない理由。車やハリウッド映画などもそうだが、大人数が関わるプロジェクトで完成度が高いものを見ると、ぼくのように個人でしか働けないものからすると奇跡のように見える。組織論や製作の観点と組み合わせると、興味深いと思える人もいるだろう。

スピノザが言うポイントは「活動能力の増大」だ。仕事で忙しい人が小一時間ゲームで休憩したって咎められるものではないだろう。それで回復し、活動能力が増えるなら善いものと言える。ぼくのように大事なことまでほっぽり出してしまうならそれは善くない。

ほとんどの人と組み合わせても善くないものも確かにあると思う。それが一般的に「悪い」と言えるものだ。そうすると「ダメ、絶対」と声を荒げたくなってしまう。しかし本質的な善悪はなく、組み合わせによって生まれ、組み合わせの片方である人自体も変質していくと知れば、もっと多層的な世界のありように近づけるのではないだろうか。

 


スピノザ『エチカ』 2018年12月 (100分 de 名著)

大変ありがたい1冊。

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