習慣に強い興味を持ったきっかけは、
チャールズ・デュヒッグの『習慣の力』という本を2年前に読んだことだった。
「HOW I WORK」という人気の連載があって、
彼は8~10時間はデスクで仕事をするそうだ。
私は、非常に長時間デスクに座って仕事をします。仕事が楽しい、楽しくないかは関係ありません。長時間デスクに座っていれば、自ずと仕事は回り始めます。デスクに座って退屈になれば、本当にやらなければならない仕事に向き合うようになります。
これは、習慣の本を書いた著者らしいと思った。
ぼくも「集中力」というものは意識して高められるものではないと思っている。
だから「集中力」が切れようが何しようが、仕事しか戻ってくる場所がないような環境に身を置くことを心がけている。彼の場合は、とにかくデスクに座ることを重視している。
何よりおもしろかったのは、
日中のそのほかの活動はすべて、できるだけ退屈なものであってほしいと思います。なぜなら、やらなければならない仕事がもっとも刺激的な選択肢になるからです。
と言っているところ。自分の生活が、退屈なものであってほしい、という人はあまりいないだろう。
以前「感度のマキシマリズム」という記事を書いた。
刺激というものは、いつも相対的なもの。
遊園地のジェットコースターに乗るような強い刺激だけが人を満足させるわけではない。蛙が池に飛び込む音を聞くことのような弱い刺激も人を満足させうる。
なぜなら刺激を受け取る「感度」は人によって違いがあるから。
そして強い刺激ばかり浴びていると、満足するために必要な刺激の絶対量が増えていき、感度はどんどん鈍くなっていってしまう。
逆に強い刺激から離れると、繊細になっていく。
たとえば、ぼくは今、甘いものを断っているのだが、干した大根にすごい甘味を感じたりする。
映画から離れて自分の日常だけを楽しんでいた頃、久しぶりに見た映画にとんでもない刺激を感じたことを覚えている。強すぎるんじゃないかと思った。(まぁ、その時見た映画は、「マッド・マックス 怒りのデスロード」なのだが)
チャールズ・デュヒッグの場合は、仕事以外の刺激を抑えることで、仕事の刺激をより浮き上がらせようとしているということだ。
劣悪な条件が重なると、ただ苦しいものに見えることもあるが、仕事は本来は楽しいもの。しかし、楽しいからといって、取りかかるのが気が乗らないこともあるし、ゆっくり余暇を楽しんでいる人を見れば羨ましくなることもあるだろう。
どうしてこんなことを考えたかというと、ぼくにも締め切りが近づいてきたから。
京都の片隅で、非常に地味〜な毎日を過ごす中、仕事がいちばんの楽しみになってきている、という実感はすでにある。
人が楽しむ刺激と比べるのではなく、自分が受け取とる刺激に集中するときが来たのだ。
「習慣の力」チャールズ・デュヒッグ
習慣は、個人の変化だけではなく、組織や社会までも変えていった。
臨場感あふれる描写に舌を巻き、読書の興奮を感じられる本。