「感度」のマキシマリズム
佐々木典士

少ないモノで生活していると、たびたび「何が楽しいの?」という表情をされたりする。
気持ちはとてもわかる。ぼくも5年前、10年前にミニマリストに出会っていたら同じ反応を取っただろうから。振り返ると、ぼくは刺激に囲まれすぎていた。

年を取ったせいもあるかもしれないが、モノを減らしてから、何もしないことや、なんでもない僅かなことを楽しめるようになってきたように思う。

 

人はどんな刺激にも耐性ができてしまう。だから前と同じように自分が楽しむためには、刺激を増やし続けるしかない。

 

例として電圧のテスターを考えてみる。
10Vの電圧と50Vの電圧を計るテスターがある。テスターの針が右端に振り切れるのはそれぞれ10Vのとき、50Vのとき。針が振りきれることを人が満足した状態とすると、10Vの刺激で満足できる人と、50Vの刺激にならないと満足できない人がいる。

 

 

同じように満足した状態するために、必要な刺激は違う。そして刺激を増やしていく度に、必要な刺激は増えていく。電圧のテスターには250V用のものだってある。

 

 

刺激を増やし続けていった結果、人がどうなるかはニュースを見れば明らかだ。映画の「ウルフ・オブ・ウォールストリート」を見てもいいかもしれない。環境からもはや刺激は得られず、クスリを使って脳を直接刺激するしかなくなる。

 

 

自分の感度が繊細であれば、少しの刺激で針は振りきれ、同じような満足ができる。

 

 

成長すれば、必要な刺激の量は当然増えていく。子どもの頃は楽しかった「いないいないばあ」にはいつか飽きてしまうのだから。ぼくもどうしても、刺激が欲しくなるときもあるし、まだそれで失敗したりもする。
ただ、いたずらに自分のテスターを高電圧用のものに変えていくようなことは避けたい。

 

 

刺激が少ない、昔の時代に戻ることもできない。

ただ、蛙が水に飛び込む音を聞いただけで、針が振りきれていた人がいたことも忘れてはいけない。

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この記事を書いた人

作家/編集者。1979年生まれ。香川県出身。『BOMB!』、『STUDIO VOICE』、写真集&書籍編集者を経てフリーに。ミニマリスト本『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』は25カ国語に翻訳。習慣本『ぼくたちは習慣で、できている。』(ワニブックス刊)は12ヶ国語へ翻訳。