「所有しない」とはどういうことか? 佐々木典士

「所有とは何か?」Tetugakuyaさんでこのテーマで哲学対話をし、サブのファシリテーターを担当させてもらったので、印象に残っているところのみ振り返る。

これは、物を減らし始めてから、ずっと気にしているテーマだった。ぼくの頭に浮かんでいたのはこんなこと。

・すでに手放しているが、手触りも重みも覚えていて、今も大切に思っている物は所有していると言えるのか?

・メルカリで1万円で購入し、1ヶ月後同じくメルカリで1万円で売ったとする。その物は所有していたことになるのか?

・住んでいたフィリピンでは私的所有の概念が弱いと感じた(お金や物はみんなのもの?)が、所有の概念はユニバーサルなものではないのではないか?

などなど。

所有は安心につながる?

議論の冒頭で出てきたのは「所有は安心」という言葉。
人の物だと壊したらいけないが、自分のものは誰に迷惑をかけるわけではない。

持ち物の例として車が出された。車を持っていれば、誰に気兼ねするわけでもなく、好きな時に出かけることができる。確かに何か安心感がある。

持ち物とは長く過ごすうちに愛着も湧く。ぼくもいろんな場所を旅した自分の車には愛着がある。「愛車」と呼ばれたり、英語圏では「She」と呼ばれたりするのが車だ。

所有がただ安心につながるのであれば、ほとんどの人が伝統的な所有を、これからも続けるはずだ。でも社会の方は、それとは真逆に進んでいる気もする。車で言えばライドシェアやカーシェアリングや、車のサブスク。所有から離れるサービスが増えている。

物を所有すれば、そこには責任が伴う。車は汚れたら洗車し、壊れたら修理し、車検を通さなければいけない。物を減らしたら、責任や面倒も減る。それがミニマリストのアイデアでもあったと思う。

「所有しない」とはどういうことか?

対話の後半は改めて問いを募り、『「所有しない」とはどういうことか?」について話し合うことになった。

冒頭で示されたのは「捨てられるということは、そもそも所有していたから」という意見。なるほど、人の物なら、勝手に捨てることはできない。手放す前提には、所有がある。

さきほど挙げたような、さまざまな共有のサービスについても「所有の枠からは逃れられていなのではないか? 所有してないように見えても利用の権利をどうするかについての取り決めがなされているだけではないか?」という意見があった。

ぼくが最小限に物を減らしたときの思いも、これに近かったかもしれない。所有から離れられたというよりも、世の中の物を使わせてもらっているという感覚があった。自分が持たないでいられるのは、持ってくれている人がいるから。そして生産してくれる人の物をただお金を出して得ているだけの消費者なのではないかという懸念が生まれたことも、これまでに何度も書いた通りだ。

母なる大地は所有できるか?

それでも「所有」について、何の問題もないわけではないと思う。ぼくは「所有を成り立たせる条件が何かしらあるのではないか?」と参加者に問いかけた。

たとえば、田舎の夏には、大量のミニトマトやきゅうりが近所中でやり取りされる。野菜はたくさんできても、貯めておけずすぐに腐ってしまう。腐らせるぐらいなら、タダで誰かにあげて食べてもらったほうがよほど嬉しい。農家となると話は別だが、少量の野菜は「所有」しているという概念が薄い。

であれば、土地やお金など、ある一定以上の期間この世にあり、金銭的な価値に交換できるものが所有できるものなのか?

あるネイティブ・アメリカンの酋長は、住む土地を金銭で交換しようとする西洋人に「母なる大地は買うことはできない」と伝えたそうだが、なぜ我々は土地が所有できると考えてしまっているのか?

コントロール不可能なものは、所有できない?

また、所有できないものの例としてぼくは「太陽」を挙げた。あまりに遠くにある、強大なエネルギー。誰も近づくことも、なにか影響力をこちらが与えることもできない。どこかの独裁国家の大統領が「太陽は俺のものだ!」と言い、国民もそれに賛成したとしても、他の国で認められるわけではないだろう。

所有は、コントロールできるものであることが条件かもしれない。こんな例も出してみた。ライオンの100倍ぐらい凶暴な肉食獣がいたとして、鋼鉄の檻にいれてもぶち壊し、逃げ回ることができたとしたら、誰も所有できない。その獣が暴れまわったとしても、責任が負えない。所有できるということは、コントロールできること? その気になれば、その存在をなくすこともできなければいけないのかもしれない。

所有と責任

ここではたと思う。なるほど、所有には責任がついてまわると思っていた。だからできるだけ所有から逃れようとしていた。でも、そもそも責任が取れるものでないと、所有することすらできないし、してはいけないのかもしれない。

対話が終わった後もぼんやりと考える。コントロールが可能で、責任が取れるものを、人は「所有できる」と勘違いすることもあるのではないか? たとえば、本当はコントロール不可能のはずの他者を?

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この記事を書いた人

作家/編集者。1979年生まれ。香川県出身。『BOMB!』、『STUDIO VOICE』、写真集&書籍編集者を経てフリーに。ミニマリスト本『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』は25カ国語に翻訳。習慣本『ぼくたちは習慣で、できている。』(ワニブックス刊)は12ヶ国語へ翻訳。