大きな石を置くこと 佐々木典士

大きな石を置いて、取り返しをつかなくする

平安時代の『作庭記』には「まず石を置いてしまう」ことが肝要だと書かれているそうだ(千葉雅也、山内朋樹、読書猿、瀬下翔太『ライティングの哲学──書けない悩みのための執筆論』P105)。何もない空っぽの場所で、いざ庭作りをしようとすると、無限のデザインと方法の可能性があるわけで、あまりの自由さに途方にくれてしまう。

だから、まずは石を置いてみる。その石に従って、次の置くべき石が決まったり、流れができ、すべきことがはっきりとしてくる。一度置いてしまった大きくて重い石を取り除くのには骨が折れるから、そこで「取り返しのつかなさ」ができてくる。無限の自由は制限されてしまうが、それで途方に暮れてしまうようなこともなくなる。

コロナ禍でフィリピンに戻れず、実家の香川県で過ごすようになって「大きな石」を置いた人とさまざまに触れ合うようになった。わかりやすいのは自分でお店を開いている人だ。カフェや本屋をしている人たちと顔なじみになり話をしていると、この人達は大きな石をすでに置いた人たちなんだな、と思う。

有限性があってこそ、発揮される自由

クルミドコーヒーのオーナーであり、『ゆっくり、いそげ ──カフェからはじめる人を手段化しない経済』という著作もある影山知明さんのトークショーにも参加した。影山さんは西国分寺という自分の地元を中心に店舗を運営し、地域通貨などにも取り組み地元の振興に努めている。その影山さんはこんなことを話していた。

「お店を開き、自分の居場所がはっきりしているからこそ、自由を感じることができる。旅も、帰ってくる場所があるから安心して旅立つことができる。お店を開いていると、大体いつもこの辺りに自分がいるだろうと友人も思ってくれているので、人とも以前よりも会いやすくなった」。

(正確な引用ではありません)

以前は、単に身軽でいればそれだけ自由が増すと思っていた。モノも少なく、結婚もしていない、会社にも勤めていない。だから、世界中どこへだって行き、そこで暮らすことができる。無限の自由だ。フィリピンに住んだ時は確かに大きな自由も感じた。遅々として何も進まず、鬱屈している日本の現状を丸ごとなかったかのように思える解放感。そうこうしているうちに、日本で定額でどこでも住めるというサービスも出始めてきた。そのサービスは自分にはうってつけのように思えたが、そこまで食指が動かなかったのは、毎日旅をしていると、それもまた日常になってしまうということを知っていたからだと思う。

人が腰を据えるとき

前田有佳利さんの『ゲストハウスガイド100 ──Japan Hostel & Guesthouse Guide 』を編集したとき、ゲストハウスのオーナーの典型的なプロフィールがあることに気づいた。世界をバックパッカーとして巡り、今度は夫婦で旅人をもてなす側にまわりたいと思った、というものだ。年齢なのか、すでに溜まった経験値が充分になったからなのかわからないが、人がどんなタイミングで腰を据えようと思うのか、とても興味が湧いたことを覚えている。

お店を開いたり、家を買ったりすることは自分にとっては、最も縁遠い行為だと考えていた。しかし「取り返しがつかない」からこそ覚悟ができ、膨大な選択肢の中から、何を自分の問題として取り組むのか決めることができる。人との関係性を、腰を据えて育むことができる。それは銀行口座に記載されるわけではないけれど、本当に大きな財産だと思う。今までそういうことをほとんどやってこなかった自分に、欠けているものだ。

空間的に離れると、相手が愛おしくなる──absence makes the heart grow fonder

一方で。とてもとっても飽き性な自分の性質も忘れてはいけないと思う。フィリピンは第2の故郷のように感じているが、そんな国がもう1つ2つあったらどんなにいいかと思ったりもする。ゲテモノでもなんでも食べ、お腹も壊さず、乗り物と移動がとにかく好きな自分は、かつて開拓者として活躍したような人たちの形質を受け継いでいるとも思う。

エチオピアのノマド、ダサネッチを研究している佐川徹さんはこんなことを言っている。移動生活は牧畜民として生きるには必須なことだが、それは人間関係の調整にも役立っているという。

「むかついている相手と毎日顔を合わせていれば負の感情が増幅していきますが、しばらく顔をあわせないでいると、だいたいの感情は収まっていく。移動には、他人と物理的に距離を取るという役割もあるんです

松村圭一郎+コクヨ野外学習センター・編『働くことの人類学』P106)。

アフリカの民族社会には呪術や呪いが多いが、遊動的な暮らしをする牧畜民には相対的に呪術が少ないとする研究もあるようだ。自分も、いつも同じ上司と仕事をするなんて、もうとてもじゃないが考えれない状態になってしまっている。

自分がそろそろ腰を据えるようなタイミングに来ているのか、それとも単に自分がしてきてこなかったものを見て眩しく思えているだけ、ただのないものねだりなのかはよくからない。ただ、大きな石の置くことの価値を、前とは違った風に今は眺めている。でも本当に飽きっぽいから、本当に。

この記事を書いた人

作家/編集者。1979年生まれ。香川県出身。『BOMB!』、『STUDIO VOICE』、写真集&書籍編集者を経てフリーに。ミニマリスト本『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』は25カ国語に翻訳。習慣本『ぼくたちは習慣で、できている。』(ワニブックス刊)は12ヶ国語へ翻訳。