この爽快感、この喉越し!
読みはじめて30ページぐらいで、一杯目のビールを飲んだ時の感覚を思い出した。お酒は飲んでいないので、ビールの味は忘れてしまった。ただ一杯目のビールを目の前にして喉を鳴らし、いざ一口飲んだ時の「ぷはぁ」「これこれ」と必要なものが満たされていく、あの感覚だけは覚えている。それと同じで、まさに今、自分に必要で、読みたかったものを読んでいるという感覚に陥った。
ぼくは人間関係からは、思い切り離れて暮らしてきたと思う。
会社をやめた後に住んだ京都ではまわりに誰も知り合いがいなかった。その後も数年に一度住まいを変えていることもあって、「ギグ」のようにその場その場で出会った人と知り合って親交する程度だった。誰かと深く付き合うことよりも、自分がよく知らない初対面の人間の方が好き、とうそぶくこともあった。自分は孤独耐性が強いほうだとも思う。
ところが最近のぼくは、人間関係をがんばっている。
ほとんど初めてといってもいいかもしれないぐらいに。
主たる悩みなのに、人には言えない。
人間関係の悩みは大きい。
「人間の悩みはすべて対人関係の悩み」。そういったのは心理学者のアドラーだが、すべてとまでは言わなくても一番に上がる人は多いだろう。
P1
それなのに人間関係の悩みは、なぜか人に言えない。たいてい悩んでいないふりをしている。差しさわりがあるからだ。仲間うちの誰に嫌がられている、誰が嫌いだ、あるいは異性の誰が好きだ。そんなことは、そうそう簡単に口に出せるものではない。
P1-2
だからあまりないことになっているのが人間関係の悩みだと言える。
親が赤ちゃんの夜泣きで起きてあやした、おむつを変えた、というのは大変な作業かもしれないが、わざわざSNSに投稿して自慢はあまりされない。自分も同じで、人間関係に時間を使っているのだが、それはSNSに投稿することではないので、あまりつぶやかなくなった。最近この人、何してるんだろうと思われてそうだ。
近づきすぎた愛情はいじめ
鶴見済さんの本はいつもぼくを救ってくれてきた。今回の本もそうだった。この本は、仕事相手、恋人、家族、友人、SNSで目にする嫌な相手への対処まで、人間関係のあらゆる場面で、百科全書的に使えると思う。人間関係にまつわる黄金律のようなものが、随所に紹介されてもいる。
その中でも、最もぼくに刺さった部分を紹介したい。
(前略)人間関係すべてについての決定的な真実がある。それは、
P154
「どんなに愛情をもってやったとしても、あまりにも近づきすぎると、悪意をもっていじめているのと同じことになる」ということだ。
ぼくの両親は、ぼくに対してああしろ、こうしろと言ってくることはなく、ぼくはそれについて、とても感謝している。その反対はいくら愛情を持ってやったことでも 「教育虐待」と呼ばれる行為になってしまう。
だが、母親と一緒に暮らすようになった当初、自分はなぜか母親に対して「こうした方がいいのに」と思ってしまうことが多かった。
パートナーや親しい人に対しても同じ。何か少しでも手助けになろうと、ぼくは力の限り、奔走してしまう。もちろん善意からだ。でもそれで相手が思うように動いてくれなかったとき、勝手に怒りが溜まってしまうこともある。
「こうしたほうが、絶対に相手の人生は向上すると思えるのに、どうしてもそうしてくれない」という時はどうすればいいのだろう。
P155
本人がそうしないのであれば、人生が向上しなくても、それはそれでしかたないのだ。そう思ってあきらめるしかない。「本人の勝手」とはそのくらい大事なことなのだ。
距離が近すぎることで起きる問題
親しい人とは、できるだけ多くを共有する。たまにはけんかをすることがあっても、その都度、腹の底にあるものを出し合うことで理解を深め、お互いにぴったりとハマった存在でいる。
どうしても、こういう関係が理想的なもののように思えてしまう。特にぼくのような人間関係から距離を取ってきた人間からするとそんな関係に憧れがある。連理の枝、比翼の鳥……。
でもそうしてあまりにも近すぎることは、理想に反してあまり良いことではない。
たとえば、日本の殺人の半数は、家族間で起こり、その中でいちばん多いのが配偶者というデータが本の中で紹介される。
誰しも相手を殺してしまうかもしれないと思って結婚するわけではない。でも、すごく好きで尽くしたり、お互い寄り添うように暮らしていた人に裏切られたり、思うように動いてくれないとなったら、確かにその分怒りが溜まり、殺したくなるかもしれないと思う。
近づけば近づきすぎるほど、お互いのアラが見えることもあれば、多くを共有していたことも忘れ、些細な違いのほうが気になってしまうこともある。
距離が近すぎると問題が起こりやすくなるのは、職場や学校や家庭を見れば明らかだ。そこは狭く閉じていて、どうしても距離が近づきすぎ問題が起こりやすいのに、逃げづらい場所だ。
実家を出てみたら、家族により親しみを感じたり優しくできた人は多いはずだ。エチオピアのノマド、ダサネッチは物理的な距離を取って、恨みを溜めないようにする(遊牧民に呪術は少ないそうだ)
人間関係の幻影を明らかにする
けんかも確かに雨降って地固まることもあるが、実際には些細なことからエスカレートして、それで関係性が終わってしまうこともよくある、かなり危険性を伴う行為でもある。
「人間関係では、人に好意を向ければ好意が返ってくるし、悪意には悪意が返ってくる。だから人に向けるのは好意にしておいたほうがいい」
P139
普段はこのことを意識はしていても、けんかの最中に頭に血が上ってこのことを忘れてしまうことはある。まさにそういう最中に読んで実践したので、すっかり助けられてしまった。
鶴見さんは、人間関係を「降りる」ということは「諦める」ということでもあると言っている。
その諦める、というのは明らかにすることが由来とされる。
明らめる、ということだ。
白馬の王子様がいたら、とても素敵かもしれないが実際にはいない。それを諦めることは、いないということを明らかにすることであり、とてもポジティブなことだ。
けんかして殴り合って分かり合う友情、一家団欒で食卓を囲む家族、生涯寄り添い、手と手を取り合って散歩する老夫婦。
こういうものこそが理想で、そこから距離があるほどマズい。そのような考えに支配されがちだったのかもしれない。少なくともぼくには憧れがあった。
でも、実際にうまく長く続きやすい関係というのは、少しドライなようでも、距離があるように見えても、リアルな知恵に裏打ちされた人間関係のことなのだろう。それは一対一での真剣勝負のような緊張感があるものではなく、もっと適当な、肩の力が抜けたものなのかもしれない。
この本が、自分のために書かれたと思う人はとても多いのではないだろうか。端的にベストセラーになってほしい。
しかし……。お金の本を書いたら、次は人間関係の本を書くことになるのではないかなと思っていたところだった。お金とつながりは密接な関係があると思っている。お金や経済の本についてはすでに鶴見さんは書かれている。鶴見さんが書かれたテーマを追っていけば、ぼくのテーマも決まるのかもしれない……。