伊藤洋志『イドコロをつくる』〜正気を保ちつつ、凌いでいく〜 佐々木典士

コミュニティは大事なのだけど

 イドコロとは、自分が落ち着けて、世の中の精神攻撃から受けた傷を回復したり、活力を取り戻せる場所。

 なぜそういうものが必要かと言えば、今が乱世だから。終身雇用制や、核家族など今まである程度はうまくいっていた社会の仕組みが機能不全に陥っていることは誰でも承知している。しかしながらまだ、次はこれですという確たる形がよくわからない。

 自由や利便性や生産性を追求してきた中で、家族や職場の同僚、商店街のおじちゃんおばちゃんたちとの関係性はバラバラになってしまった。そうしてもう随分経ち、どうやら失われたコミュニティが大事なものだったというのはみんなが気づいている。

 自分も「そうだよね、大事なのはコミュニティだよね」とわかってはいるが、根無し草の自分にとっては重さを感じる言葉であり、ついついリストの後まわしになり、大きな課題としてどでんと控えている。

イドコロという「淀み」

 イドコロというのはもっと軽みのあるものである。ともすればコミュニティというのはメンバーリスト化したり、その中で序列ができてしまったりする。かと言ってチェーン店の店員と客のように、挨拶もせずにただ流し流されていくわけでもない。

 伊藤さんによればそれは人の「淀み」のようなものだ。「たまたま居合わせた人が適当な範囲で交流することが正気を保ち、元気でいることにつながる」と伊藤さんは言う。

 だから、地域にある小さなお店に通うだけでも「イドコロ」になりうる。そういうところで、いつもの顔にほっとしたり、世間話をしたりするだけで救われる。というわけで「銭湯」も重要なイドコロのひとつだ。

世間話の効能

 世間話なんて大した効能はなさそうに思えるが、そうではない。たとえばこんな話が出てくる。「ある洗脳による監禁事件の主犯は被害者を個人の飲食店には連れていかなかったという。匿名性が高く外部との会話が発生しないコンビニなどで食事を確保させ、駐車場で食べることを好んだのだという」。

 人を洗脳するには、外部からの情報を断つのが効果的。思えばそもそも、カルトは孤独な人を見つけてその人を肯定し、居場所を提供するのが常套手段だった。ひとつしかイドコロがないと人は容易に狂わされるのだろう。

 だから最近はこんなことをしているんですよ、と世間話で言える人がいなくなったらまずい。こんなことをしようと思ってるんですよ、と世間話で言っても伝わらないことばかりを考えていてもまずい。

 乱世なのでみんな先行きが不安だ。そうなると、2030年にはどうなるのか、2040年はどうなるのか、そのために今何をするべきか多いに惑うことになる。そうして悩んでる時に、成功者からこうしたらうまく行きますよ、というおすすめされる方法はたくさんある。そんなこんなでミニマリストで1日1食で、投資を勉強して暗号通貨を睨みながらFIREを目指し、筋トレして断糖しながらNMNサプリを飲んで長寿を目論んでますと言われれば、そんな重装備で大丈夫かとかなり危うい感じがする。

 まとめ動画を見て勉強しながら、オンラインサロンで仲間と交流しつつ人脈を探り、SNSとYouTubeチャンネルの更新をがんばっています! という話は、意識の高いコミュニティ内では褒められるかもしれないが、おじさんやおばさんとの世間話の審判では認められないかもしれない。

誰でも正気を失う可能性がある

 これらはまだましな方だろうか。陰謀論、偏ったスピリチュアル、SNSでのバッシング依存、危うい投資やマルチ商法など、ぼくにも覚えがあるがまともで常識があったはずの人がなんらかのきっかけで正気を失ってしまうことがある。新型コロナウイルスは手をしっかり洗い、どれだけ対策をしていた人でも感染してしまうことがあるというが、それと似ているかもしれない。

 正気を取り戻すためには、複数の場を持つことが大切になってくる。自分のしようとしていることを世間話でしたときに「それ、なんか大丈夫?」「ちょっと何言ってるのかよくわからない」と言ってくれることは結構大事なのだ。どれだけ高級なコミュニティに属していても、それだけに浸るとどうしても偏りや歪みが出てくる。「文明から離れて一人になれる空間」もイドコロのひとつとされるが、それは自然を眺めているときに自然から「私達はそういうことしないですね」とたしなめられることがあるからだと思う。

イドコロという免疫システム

 そうしてイドコロも複数持つことが推奨される。アナロジーとなるのは、身体の免疫だ。

「身体の免疫系も、第一段階の物理的防御(汗、皮膚、唾液)に、第二段階の自然免疫(好中球、マクロファージ)、第三段階の獲得免疫(抗体、キラーT細胞)の三段階で外敵からのアタックに対応している。いくつも対抗策が用意されているのは、外敵の種類も無数にあるからである。そのため複数の要素を掛け合わせて無限の対抗手段を持てるようにしているのである。思考の免疫系としてのイドコロも、どれか一つで現実世界の無数の精神攻撃に対応できるものではない。映画とかはドラマが盛り上がるので家族愛など強力な要素を強調するが、現実世界で、家族だけ、あるいは友人だけで世の中の精神攻撃に対応しきることは難しいのである」

 関係が比較的固定されていて、長く付き合う必要のある家族や仕事仲間や友人(自然免疫的)だけではダメ。家族などがダメだったとしても、趣味の集まりや、通える小さなお店や、居心地のいい公共空間(獲得免疫的)だけでもダメ。「「家族を大事にしよう」ぐらいなら標語が教えてくれるが、それだけでも不足だし、「地縁血縁は古い」などの過剰な未来志向には人生の長さを想定していないなどの穴がある。結局のところ、新旧どちらも大事」なのだ。

人への信頼感を取り戻す

 個人的に気になったのは、伊藤さんが都内なのに土間がついているという物件を改装したときの話。それはイドコロのひとつである「有志でつくるオープンな空間」でもある。そして漆喰で壁を塗ったり、床を貼ったり、天井を抜いたりする作業のなかで「人への信頼感が醸成された」のだという。それは不思議なことにいろんな知り合いが作業を手伝いに来てくれたから。そして他の誰かが改装するとなると自分も手伝うようになったのだという。「何かあったら、誰かにできる範囲で手伝ってもらえる」という感覚は人生に対する安心感になる」のだ。

 カフェに行くと、コロナ対策で隣の席との間にはついたてを立てられている。これは新自由主義と自己責任論が浸透した世の中を象徴しているように思う。近しい人との間にもついたてがあり、各自自分のことは自分でしましょうねと言われている感じだ。何かを誰かにやってもらいたいなら対価を支払い、自分が手伝うなら対価をもらいましょうという殺伐とした世界観。ニュースを見ていると、他人はすぐにあおり運転をし、SNSでバッシングをし、セクハラやパワハラに満ちた危険な存在ということになってしまう。この世界観で他人を眺めることはジワジワとダメージを受ける精神攻撃だ。

 さらに他人への信頼感が薄くなっているところに、コロナがやってきた。他人はウイルスの媒介者であり、避けるべきもの。さらにコロナをどの程度重く扱うかという問題には個人差があり、自分の考えが通じないと苛立ってしまう。まさに「今は分断の時代という評価もある一方で、ある種の同調圧力も強いという不思議な状況」なのだ。感染を予防することも大事だが、失われた人への信頼感を回復していくことは長いタイムスパンでの目標になると思う。

足元を確かに、したたかに

 実際にどうやって伊藤さんがイドコロを作ってきたかというノウハウはコミュニティ作りを実践している人にも役立つはずだ。そして落語を聞いているような軽妙洒脱さで、正気を失わせがちな事案についてシャープに指摘してくれるもありがたい。ここにいくつか紹介したい。

・治安の悪くなった現代のSNSは、くつろぐ場所ではなく、おもに告知か告白や告発の場である。
・個々人の体験はコンテンツなどという資材ではない。
・ゲームなどの脳の報酬系をいち早くハッキングできるエンタメは導入が簡単だが自分が変化しない。
・作業の自動化は善とされているが、自動化した分だけ共同作業が減るので、自動化の分だけどこかに別の共同作業を用意しないと逆に不調をきたしやすくなるはずである。ドラム式洗濯機と全自動食洗機とブラーバ(もしくはルンバ)だけでうまくいくと思うなよ! である。
・レビューシステムは大規模な集団の中で悪徳者を排除することは得意だが、多様な価値観を同時に共存して発展させるのは苦手だ。

 本全体のメッセージとして強調されているのは、バランス感覚であり、足元の確かさ、地道さだと思う。乱世だと、これだけでうまくいきますよ、という単一的だったり断定的なメッセージについ乗っかりたくなってしまう。そうして次は○○が来るとか、○○はもう古い!という言葉に騙されやすくなってしまう。弁の立つひとりに、世の中のすべての事象を切ってもらうことを期待してしまうのも症状のひとつだ。

 新しいものも古いものも、どれも確かに大切ではあるのだが、実際はどれかひとつで長く大きな効能が続くようなものはない。だから単体ではなくいろいろと組み合わせていく。見つけたイドコロもいつかはなくなる。だからうまく行く方法に乗っかり続けることではなく、傷ついては回復しとりあえず当面の間をしのぐ。それを複数走らせてなんとか続けることが、本当の知恵なのかもしれない。

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この記事を書いた人

作家/編集者。1979年生まれ。香川県出身。『BOMB!』、『STUDIO VOICE』、写真集&書籍編集者を経てフリーに。ミニマリスト本『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』は25カ国語に翻訳。習慣本『ぼくたちは習慣で、できている。』(ワニブックス刊)は12ヶ国語へ翻訳。