宮下洋一『安楽死を遂げるまで/安楽死を遂げた日本人』 〜結果に優先する納得〜 佐々木典士

素朴な賛成派だった

ぼくは人生に対する満足感は、人生が終わる時に来るのではないと思っている。(このことは前にもブログで書いた)いままで行ってきたことが、臨終の間際に採点されて、結果「いい人生でした!」と誰かに認められるわけではない。やりたいことを将来にも老後にも後回しにせず、思い切ってやってしまえば人生全体の満足感は想像より早く訪れるのではないか。ぼくは今40歳だが、その満足感を確かに感じている。

そういう考えもあって、ぼくもここぞという時に自然に死ねないようなら安楽死がいいと思っていた。引き際は、他の誰でもない自分が決めるべきで、安楽死賛成!! という感じだったがよく知りもせず、根拠も乏しかったので、こちらの本を手に取った。

こちらの両作は、別々に読んでも構わない形式になっているが、『安楽死を遂げた日本人』(以後第2作)は『安楽死を遂げるまで』(以後第1作)の続編という形になっていて、著者自身の意見も少しずつ変わっていく。

1作目の方は、安楽死が合法またはグレーゾーンのまま認められているスイスやオランダなどの欧米各国、そしてかつて大きな事件となった日本での案件が丁寧に紹介されていて、大まかな状況やキーワードを掴むのに適している。

安楽死にも種類がある

たとえば一口に安楽死といっても、いろいろな種類がある。
(1)積極的安楽死(医師が致死薬を入れた注射を打つなど)
(2)自殺幇助(医師から与えられた致死薬で、患者自身が命を絶つ行為。たとえばスイスの団体「ライフサークル」では、点滴に入った薬を、患者自らがストッパーを開いて血液に入れる。医師はそれを手伝うという役割)
(3)消極的安楽死(延命治療を控えたり中止すること。胃瘻の処置をやめたり、人工呼吸器を外すこと)
(4)セデーション(たとえば残りの命が通常1、2週間に迫ってきた末期癌患者に薬を投与し、耐え難い痛みを鎮静させるとともに人工的に昏睡状態に陥らせ、死に向かわせること)

欧米各国では安楽死が合法化されているという漠然としたイメージでいたが、たとえば、(1)の積極的安楽死はオランダやベルギーでは認められているが、スイスでは行うと犯罪になってしまうという。

安楽死にまつわる言葉においても、その語源や言葉のマイナスイメージを避ける思惑で、下記のようなさまざまな言葉があり、用法にも統一がなされていない。
安楽死/Euthanasia
自殺幇助/Assisted Suicide
自死幇助/Assisted Voluntary death
尊厳死/Death with Dignity

安楽死をするために必要な条件、金額

第1作、第2作とも著者がスイスで実際に行われる自殺幇助の場面に実際に立ち会い、生々しくその場面が描写される。安楽死が容認されている国だといっても当然簡単にはできない。

それが認められるには、
(1)耐えられない痛みがある。
(2)回復の見込みがない。
(3)明確な意思表示ができる。
(4)治療の代替手段がない。
 

などを患者が満たしている必要がある。この条件は、安楽死を容認する国で概ね共通しているという。しかし、(1)の耐えられない痛み、について精神疾患を含むかどうかなどは各国で割れていてベルギーや、オランダではそれを除外していない。

恋人に振られてしまって辛いとか、漠然と人生つまらないとか、借金で首が回らないというような理由で安楽死は行われない。それらは、時間が立てば回復する可能性があるし、傷を癒やすのに他にも試すべき方法があると考えられるからだ。

安楽死の手続きにも、考えられうる安全策は取られているように感じた。(次に挙げるのは年間80名の自殺幇助が行われているスイスの団体「ライフサークル」の例で、団体や各国の法律により少しずつ違う)

・団体に所属する医師の診断
・団体に所属しない、第三者の医師の診断
・生命倫理分野に強い、弁護士の許可
・医師は薬を提供し、点滴の針を入れるところまではやるが、それ以降は本人の行為となる。(点滴はストッパーで止められていて、それを本人自身が開け放つ)
・自殺幇助の直前には、誓約書を書いたり、口頭での本人の意思確認が改めて行われる。(なぜここにいるのか、この薬が体内に入るとどうなるかがわかっているか? などが問われる)
・その一部始終はビデオで録画される
・警察、検視官がその後到着し、ビデオを確認したり、現場に居合わせた人物などのパスポートを確認する。

などなど。診断の間違いや、本人が意図しないもの、事件性のあるものは排除される考えられた仕組みだと思った。そして料金についても法外というわけでもない。

・外国人の場合は1万スイスフラン(約115万円)
・スイス国籍なら4000スイスフラン(約 46 万円)
外国人は、火葬や遺体搬送などが必要になるため高い。1回につき団体に残るのは、1000スイスフラン(約 11 万5000円)その残った資金は、老人ホームへの寄付金に回している。

営利目的のためにやっているのではない、という金額だと思う。

反対派の意見

著者の宮下さんは、安楽死に対して賛成もしくは反対といった明確な意見を最初から持っていたわけではなく、取材を重ねながら自分の立ち位置を明らかにしようとしていく。安楽死について理解を示しながらも、ときに違和感を持ち、その人がいなければこれらの本自体が成り立たなかったはずの「ライフサークル」の代表である医師プラシックにも、忌憚のない意見をぶつける。またプライシック自身もそういった意見や、反対派にも取材することを望んでいた。

安楽死に反対派の意見としては、
・カソリックなど宗教上の理由で自殺が許容し難いものであること(死は人間ではなく神が司る領域のものである)。
・合法化されてしまうと、医師によって法が乱用されたり、患者の生の可能性が投げやりになる可能性がある。
・たとえ1%の生存率しかなかったり、末期症状でも後に元気になる人もいる
などが挙げられる。

(後述する、無駄/無駄でない、役に立つ/役に立たないという2分法もぼくは強力な反対意見になりうると思う)

などがある。フィリピンにいると、たびたび日本人の自殺率の高さが話題になる。ここはほとんどの人がカソリックなので、自殺は大きな罪だと考えられている。実際に信仰深い人と話していると、こういった宗教上の理由を、理論的でないものと切り捨てることはできないと感じる。

そして第1作での著者の関心は、安楽死の制度自体の是非よりも「死は誰のものか?」というものに移っていくように読める。

安楽死を望む人の特徴

その最初の入り口は、自殺幇助を受けようとする人に特定の傾向があるように見えたから。

・子供がいないことや、家族間で問題を抱えていること
・意思が固い人/自立的な人/いい意味で利己主義的な人

さらに反対派のある人物は、安楽死を望む人たちの特徴を「4W」と表現する。
・White/白人
・Wealthy/裕福であること
・Woriied/心配性
・Well-educated/高学歴

プライシック医師も自身の体験から、この傾向を概ね認めている。白人というのは人種差別的な意味合いではなく、「個」の価値観が尊重される社会に属している人が多いからということのようだ。そして彼らには会社の幹部が多く、人に指示されることを嫌い、また自分の人生を思い通りに生きてきた人物が多い。

 そして伝統的な家族感を持つアジア人や黒人はこれまではまずいなかった。(たとえば、今ぼくがいるフィリピンには介護施設は1部の富裕層向けを除いて皆無だそうだ。それは平均寿命が短いことと、大家族主義であり、老いた家族の面倒は家族が見るということがごく当たり前の行為として考えられているからだ)

挙げられている傾向は自分にもあてはまる。子供がおらず、なんでも自分で決めたいタイプ。裕福とは言えないまでも、思い通りに人生を生きてきた。安楽死を望む人には、自分の身体の自由が効かなくなったときに、風呂や排泄のまで他人の世話になりたくないという人が多いが、自分も同意見だ。なんでも自分で決めてやりたい、他人に世話になりたくない。なぜ、自分が漠然と安楽死賛成だったのかわかったような気がした。

大切な家族がいても

では、大切な家族がいれば人は安楽死を望まないのか? オランダでは家族の結びつきが強かったある父親が認知症を理由に幇助を受けた。そして第2作の主人公となる、多系統萎縮症を患った小島ミナさん。大脳以外の身体の機能が徐々に失われていく難病で、車に乗ること、食事を作ること、表情を作ること、話すことなどできていたことが一つずつできなくなっていく。いちばん辛いのはいずれ世話をかける人に「ありがとう」という言葉すら言えなくなるということだった。ミナさんに子供はいなかったが、そういった状況でも面倒を快く見てくれる姉妹がおり、四姉妹の結びつきは硬いと言えるものだった。それにも関わらず安楽死を望み、スイス行きを決意する。

ミナさんは人生を「分数」にたとえる。
分母が生きた年数。ミナさんの場合は51歳。分子は人生の濃さ。濃密な人生を送ってきたミナさんは自分の人生の濃さを60ぐらいと表現する。そうして人生の分数は、60/51となり、1よりも多い。つまり充分に満足する人生を送れたということだ。しかし、病気を患ってからは、分子である人生の濃さは変わらないのに、年を取り分母だけが増えていってしまい、人生全体の満足度が下がってしまう。

そしてミナさんはこんな風に言っている。
「これが30歳くらいだったら、あれもやればよかった、これもよかったというふうになって、もっと生きたいという願望が強かったかもしれない。でも正直言って、50年以上生きたから、まあいっか、という心境になるんですよね」

プライシック医師も、患者たちの多くがこれと同じ共通のフレーズを口にすると言う。「私が満足のいく人生を送ってこなかったら、もう少し長生きしようと思うかもしれない」

死は誰のものなのか

そしてここで、「死は誰のものか」という問題が立ち現れてくるように思う。たとえばこんな状況があったとしたらどうだろう。

病気や精神疾患を患い、食事や移動、排泄など他人の世話になってまで生きたくないと思う本人。
・そんなことは全部自分が引き受け面倒を見るのだから、とにかく生きていてほしいと願う家族や人

こういう状況があったとして、どちらが優先されるべきなのか。ぼくは漠然と死は、自分のものだという認識があったから、前者が優先されるべきだと考えてきた。しかし前者の人間もまた、以前ブログで書いた「無駄/無駄でない」「役に立つ/役に立たない」という2分法に囚われすぎているかもしれない。ミナさんの妹も、自立心旺盛なミナさんに対して「鎧を脱いで、人の助けを借り、何もできない人として過ごすのもいい」と安楽死を考え直してもらうように説得したこともあった。

後者のとにかくなんでもいいから生きていて欲しいということを「家族のエゴ」だと切り捨てる人もいる。しかし少なくとも、解決すべきは自分1人の人生の満足感=自分1人の納得だけではないことがこの本を通じてわかった。

日本でも過去に、医師による安楽死が殺人ではないかと話題になった事件がいくつかあり、1作目でその後が取材されている。当時の日本は、本人への癌告知すら普遍的なものではなく、家族の了承以前の話だったようだ。本人が自分の病状すら理解しておらず、家族もその詳細の過程を知らされず、密室で家族の人生が医師の手によって閉じられる。目の前にある患者の苦痛を和らげたいという、医師の思いは間違いとは言えないかもしれない。しかし、それでは後々に冷静になった家族が疑問を持つこともあるだろう。

この2作を通じて多岐に渡って取材されている安楽死関係の案件でも、こんな風に残される人たちの「納得」がうまく形作れなかったときに禍根を残すことが多いと感じた。

選択ではなく、結果でもなく、納得

ぼくがいつも大事にしているのも「結果」より「納得」ということ。自分のキャリアでもなんでもそうだが、納得は結果に優先すると思っている。結果はダメでも、やり切ったと思えれば清々しく納得できる。

本人はすでに自分の人生に満足していたり、安楽死の他に道がないことに納得している。しかし家族がそれに納得しないということもあるだろう。納得が一致していないと、本人はまだ生きたいのに、家族は安楽死を望むという悲しい事態も起こりうる。

小島ミナさんの安楽死の様子は、NHKスペシャルでも放送された。そこでは、ミナさんと同世代で同じ難病を患い、さらに症状を進行させながらそれでも生きようとする鈴木道代さんの姿も描かれた。本人も家族も生きることを望んでいる。鈴木さんはもはや目をつぶることぐらいでしか自分の意思を示せないが、それでも家族との何気ない会話が楽しいという。本人と家族が選んだ道はミナさんのケースとは違うが、納得が共有されているという点では同じだ。

小島ミナさんの納得の醸成はどうだったか。姉妹たちは安楽死に最初から諸手を挙げて賛成していたわけではないし、ミナさんの面倒を見たいと願っていた。しかしミナさんの気持ちは変わらず、首吊りや服薬など4度の自殺未遂をしてしまう。その過程で少しずつ、納得が進んでいく。安楽死の「抑止力」という効果も見逃せない。鶴見済さんの「完全自殺マニュアル」でも、いざとなったら死ねばいいのだからという諦観が逆説的に生の充実につながるということが大事なポイントだった。安楽死の団体に登録できた患者も、いざとなったら「安楽死できる」という可能性が現実味を帯びて初めて、もう少し生きてみようと思える人がいるという。

そしてミナさんが辿りついた結論は、不謹慎を承知でとても美しいと感じた。安楽死の最良面は、本人の意思が確認できなければそもそも実行ができないので、死の直前まで残される人とコミュニケーションが取れるということだと思う。安楽死する当日に友人たちとパーティをしたオランダ人もいる。

ミナさんの最後は、姉たちと長年の感謝を伝え合う美しいものだった。自殺では、事前に誰かに知らせては必然的にできなくなってしまう。もしミナさんが何度も試みたそれに成功してしまったとしたなら。自分が知らされていない、見ていないところで行われたものに家族が納得することは難しいのではないだろうか? 第1作で描写される安楽死によって残された家族も、他の方法では考えられないほど穏やかにそれを受け止めていると感じた。安楽死に向かう過程で、少しずつ、長いお別れを言えたからではないか。

本を読んで、安楽死全体を、安楽死自体をいい悪いというのは乱暴だという気がした。その中にも祝福されているようなものと、そうでないものがある。納得が大事であるなら、世の中の安楽死反対派の人にも納得してもらう必要があるが、そこまでいくと、課題の設定が大きすぎる気もする。第1作の中で、祖父の安楽死に反対する孫の言葉が出てくる。「こんな死に方には反対だけど、おじいちゃんが決めたんだから仕方がない。嫌だけど、おじいちゃんの意思を尊重するね」いかにこんな成熟を獲得していくか。

少なくとも自分がそれを選ばざるを得ないようなときは、残される大事な人に納得してもらえるよう尽くそうと思う。そして死は唐突に訪れることもある。ぼくは自分の人生に満足していて、何が起ころうとも後悔はない。そのことに大事な人にも納得してもらえるよう、なんでもないときから、折に触れて話をしておく必要があると思った。

宮下洋一『安楽死を遂げるまで』こちらが第1作。安楽死を巡る歴史、争点がまとめられていてよくわかる。そして白眉は実際に安楽死の現場での取材された描写。6言語を操る著者だからこそできた、直接インタビューによる海外取材は価値がある。

宮下洋一『安楽死を遂げた日本人』こちらが第2作。主人公、小島ミナさんがスイスに赴くまで。NHKスペシャルを見たという人もぜひ。映像はそれでしか伝えられないものを伝えるが、人の思いや背景を掘り下げるにはやはり文章の力、情報量が必要だ。


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この記事を書いた人

作家/編集者。1979年生まれ。香川県出身。『BOMB!』、『STUDIO VOICE』、写真集&書籍編集者を経てフリーに。ミニマリスト本『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』は25カ国語に翻訳。習慣本『ぼくたちは習慣で、できている。』(ワニブックス刊)は12ヶ国語へ翻訳。