エンプティ・スペース 011
間の扱い方 
沼畑直樹
Empty Space Naoki Numahata

2019年11月

「空間」という言葉は、「からのま」という意味になるが、「ま」の部分は「間合い」「言葉の間」という感じで使われる。

「間」とはなんだろうと、普段あまり考える人はいないが、「間の取り方」を高度に扱えるのが人間だったり、大人だったりするのだろうと思う。

映画やドラマの台詞には必ず間があり、その間をどうするかは役者次第だ。スピーチやプレゼンでも同じで、ここを焦ると、すぐに聴衆に見抜かれる。

映画では、「間のあいだ」に、観る側はいろんなことを想像する。

台詞の意味、今起きていること、表情から読み取れる感情。

小説では書かれているはずのことを、自ら想像する。

時々、あえてそれを台詞で説明するという挑戦的な作品もあるが、多くの名作は「間」の素晴らしさによって成り立つ。

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』という映画では、ロバート・デニーロが最後、かつての親友の前で、質問に答えずに黙って相手を見つめるシーンがある。

監督のセルジオ・レオーネの得意な手法であるけれど、ここでただ、カメラは少しずつ彼の顔に寄っていく。

そこにエンリオ・モリコーネの曲が流れると、なぜか泣けてくるのだ。

観ているほうは、いろいろなことを考える。昔、二人が仲良かったころ。裏切られたときの気持ち。二人が愛した女性のこと。相手を許す気持ち、許さない気持ち。

映画では「間」は「闇」でもある。リドリー・スコットの『エイリアン』(1979)と『ブレードランナー』(1982)は、今も観ても映像で想像力が奪われることはない。その理由は、多くの影、闇を作り、怖さを伝えることに成功しているからだ。ここを当時の技術で描いてしまうと、数十年後には古くさく感じてしまう。スターウォーズにはそういう側面があり、若い世代には受け入れがたい映像となっているらしい。

「間」が描く想像力の「余地」によって、体験型の映像ができあがる。ファミリーコンピュータというゲームが登場する前のパーソナルコンピュータによるゲームブームはまさにそれだった。グラフィック能力に限りのある当時は、自分や敵が今のアイコンのようなものでしかなかったのだった。私は小学生で『ブラック・オニキス』というゲームに出会った。クリアしたときの感動は今も忘れられない。シンプルに描かれた3Dダンジョンを往くRPGの元祖だが、今のように全てを描ききっていないので、私が勝手に想像した世界を歩くことができたのだ。

西洋はすべてを固定し、施し、飾ることで美を完成させようとする。曖昧さを嫌い、ストーリーの結末は決まっている。

東洋は間を作ることで体験型にし、想像力の余地も残す。曖昧であり、ストーリーの結末は読者まかせだ。

車の間。

最近、車を買い替えた。再びマツダだが、ミニマリズムのブームから、マツダは車のデザインにその要素を取り入れるようになっている。無駄な要素を取り除き、何かを際立たせる。間を大事にする。

そういった思想によって完成したMazda3とCX30という車は、見事なまでに欧州車と違う場所に立つことになった。

直線的で説明的なフォルクスワーゲンやアウディ。線は無駄なく車の中で完結し、想像力の余地はない。面はまっすぐ平坦で、ドイツらしくプロテスタント的な気持ちよさを持つ。

一方でMazda3のサイドの面はゆるやかに波を打つ。これは、そこに映る風景によって見え方が変わるという狙いがあり、「もしここに置いたらどう映るだろうか」という想像力をかき立てる。

全体のデザインとしても車の外側まで繋がるようなラインで、ダイナミックな動きを想像させる。

観る人によってはつまらなく、観る人によっては感動的だ。

言い換えると、想像力のない人にはつまらない車で、想像力のある人には感動的な車だ。

内装もシンプルで、禅の思想を感じさせるような「空間」を仕上げ、今まで誰も見たことのないような車のインテリアを実現している。Mazda3やCX30の内装を一度見てしまうと、欧州プレミアムの内装はどこか押しつけがましく、古くさく見えてしまう。

ただし、欧州車はそういった100パーセントのデザインによって、「この車に乗ったらこんな暮らしだろう」とか、「朝焼けを見に出かけたい」「スイスの湖畔にあるホテルに」といったイメージを想像させる。そこに蓄積されたノウハウと文化があるため、日本車はまだ太刀打ちできない。日本のプレミアムな文化は京都にあり、多くの日本人が無縁なので、車の開発者にとってもハードルが高いのだ。日本では、都会でお金持ちがプレミアムな文化を持っているわけではない。

「西洋は100パーセント」という考え方も、一方的すぎる。

今はゆるやかに素敵な間を持つ人も増え、シンプルライフも支持されている。

アメリカには一方的で、「余地」を嫌うような選択をする政治家がトップにいるが、それを嫌がる層もたくさんいる。

奥ゆかしく曖昧さを好む日本人の美的感覚は、政治やビジネスの場面で批判されがちだが、最終的に「醜い」を嫌う人々は、その美的感覚を曲げることはなく、ひらりと批判をかわして生きていくだろう。

着飾りすぎず、話しすぎず、買いすぎず、間の取り方を大事に、想像力の余地を残す。決めつけすぎず、決断した選択も絶対的ではない。

部屋が「空間」となったとき、そんな「間」に寄り添った人間になれるのかもしれない。

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この記事を書いた人

『最小限主義。』、写真集『ジヴェリ』『パールロード』他(Rem York Maash Haas名義)、旅ガイド『スロウリィクロアチア』他

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