稲垣えみ子「寂しい生活」魂レビュー
佐々木典士

ミニマリストとは、自分に必要なものがわかっている人。

大事なもののために、減らしている人。

「ぼくモノ」に書いたこの考えは、今もあまり変わっていない。

 

 

必要なものを見極め、そうでないものは削ぎ落としていく。

モノも情報も多すぎる今「減らす」ということはますます重要性が高まっていくと思う。

 

 

しかし、それだけでは見落としてしまうかもしれない大事なことが、この本には書かれている。

 

娯楽になる家事

 

稲垣えみ子さんは原発事故がきっかけで、つぎつぎに家電を手放し、今の電気代は150円代。

エアコン、電子レンジ、冷蔵庫など普通の人が使っているものをことごとく使っていない。

 

 

洗濯機もないので、服は桶で手洗いする。しかし手洗いは愛用のチノパンがムラになってしまったり、失敗の連続だ。しかし、失敗するからこそ工夫が生まれ、難しいからこそ面白さが生まれる。ここまではよくある話だ。フィルムカメラのほうが味わいがあったり、マニュアル車のほうが運転が楽しかったりする。

 

 

稲垣さんがここから辿り着いたのは家事は「娯楽」であるという境地だ。

 

で、なぜ楽しいのか?  それは結局のところ、難しいから。失敗ばかりするから。つまりは面倒くさいからなんですよね。

 

さまざまな家電の発明は、「面倒くさい」ことを取り除くことだった。

炊飯器を使えばあとはお任せで、火加減の調整で失敗することはない。

毎朝、薪を火にくべるのは時間がかかるから、ボタンひとつでエアコンを入れる。

 

 

面倒くさいことを家電が肩代わりしてくれて、家事は楽になる。

 

 

もちろんとてもありがたいのだが、そこで生まれてしまう危険性があるのは、家事は面倒くさいもので、できるだけ手間を省いたほうがいいもの、つまり「家事=無駄なもの」という発想である。

 

家電がこれからどれだけ発達しようとも、そのおかげで家事がどれだけ短時間で済もうとも「家事=無駄なもの」と考えていると、いつまでもその押し付け合い、なすり合いは終わらない。家電のボタンを押した回数がどっちが多いか、夫婦で揉める未来も来るかもしれない。

 

 

無駄なもの/役に立つもの

 

家電を使ったほうがよい、使わないほうがよいという話ではないし、この話の本質ではなくきっかけにすぎない。大事なのは、家電を使わないことからはじまった気づきである。「無駄」を巡る問いは、家事から始まりさらに推し進められていく。

 

私こそが、自分の時間をずうっと2つに分けてきたのです。 「無駄な時間」と、「役に立つ時間」と。 「無駄な時間」っていうのは、そう、家事とかそういう「面倒くさいこと」をする時間です。評価もされず、お金にもならず、そういうことをする時間。  「役に立つ時間」っていうのはその逆ですね。つまりはお金になる時間。評価される時間。

 

さらに言えば究極のところ、私は口ではどんなきれいごとを言っても、世の中には無駄なこととそうじゃないことがあると、分けて考えていたわけです。時間だけじゃない。人間もそう。腹の底では、「世の中には役に立つ人間と、役に立たない人間がいる」と思ってきた。で、私は役に立つ人間でいたい。無駄な人間ではいたくない。ずっとそう思い続けてきた。

 

 

無駄な時間があればそれは減らし、役に立つ時間を増やす。

役に立たない人がいれば関わらないようにし、自分は役立つ人間の側にまわれるよう努力する。

世の中には「無駄なもの」と「役に立つ」ものがある。

しかし、その思考を保持している限り、その努力は空しいものになっていく。

 

そういう考え方そのものこそが結局のところ、自分自身を傷つける。なぜなら老いて死んでいく時、人は誰もが「役に立たない」存在になっていくからです。

 

 

誰もが役に立たなくなっていく

 

今年、お亡くなりになった稲垣さんのお母様は認知症を患っていた。

 

 

得意だった料理は、たくさんのレシピや調理器具を管理できなくなり難しくなった。高機能に、複雑になってしまった電子レンジやインターフォンの操作に対応できなくなっていく。服が好きでおしゃれなお母様だったそうだが、山のような洋服からその日着たい服を取り出すこともできなくなっていく。

 

 

人が年を取り死に向かっていくということは、その最中で「役に立つ」と身に付けたはずのものができなくなっていくことである。身に付けた語学や、プログラミング言語のような高度のものどころか、食べることのような動物として基本的なことすらできなくなっていく。

 

 

集めたモノはお墓にも天国に持っていけないというのはよく聞く話だが、その前の段階でせっかく集めたモノも自分では使えなくなっていく。

 

 

「無駄なもの」があり「役に立つ」ものがあるという考えにこだわっていると、役に立たなくなっていく自分に我慢ができなくなるだろう。人生のいっとき、どれだけ強者になろうとも、人は弱者になって死んでいく。誰もが死を、役に立たなくなっていくことを避けられない。

 

 

だからね、私はもう家事を差別しない。いやもう決して。しゃがみこんで洗濯物をゴシゴシしている時間を無駄な時間だとは絶対に思わない。 それはもう間違いなく自分のために。この世の中の片隅で糸の切れた凧として生きる自分だって無駄じゃないんだってことを日々確認するために。

 

 

必要でないものは減らす。

無駄なもの、役に立たないものは減らす。

それは間違いではないし、まだまだ広まる価値のある考えだと思う。

 

 

しかし、無駄を削ぎ落とし無駄でない自分ができあがったとしても、それは無駄によって支えられているかもしれない。役に立たないもののために尽くすことで、自分が役に立てているのかもしれない。そのことは忘れてはいけない。

 

 

先日の稲垣さんとの対談で聞いた忘れられないエピソードがある。

 

稲垣さんのお母様が以前、貝の料理がおいしいといって食べていたので、また作ってあげたそうだ。しかし以前は食べられたのに、貝を自分の歯を使ってこそげとって食べるということができない。稲垣さんもその方法を懸命に教えるのだが、何度やってもできない。

 

あまりにできないので、最後は2人して笑ってしまったそうだ。その笑いは、いったいどこからやって来たのか?

 

 

無駄、無駄でない。

役に立つ、役に立たない。

その二分法は、自分が死に向かっていくとき、そのまま自分に突きつけられる。


稲垣えみ子『寂しい生活』

大切なのは手放した後、失われた後にやってきたものを、どう捉えるかにある。

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この記事を書いた人

作家/編集者。1979年生まれ。香川県出身。『BOMB!』、『STUDIO VOICE』、写真集&書籍編集者を経てフリーに。ミニマリスト本『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』は25カ国語に翻訳。習慣本『ぼくたちは習慣で、できている。』(ワニブックス刊)は12ヶ国語へ翻訳。

コメント

コメント一覧 (1件)

  • […] こういう状況があったとして、どちらが優先されるべきなのか。ぼくは漠然と死は、自分のものだという認識があったから、前者が優先されるべきだと考えてきた。しかし前者の人間もまた以前ブログで書いた「無駄/無駄でない」「役に立つ/役に立たない」という2分法に囚われすぎているかもしれない。ミナさんの妹も、自立心旺盛なミナさんに対して「鎧を脱いで、人の助けを借り、何もできない人として過ごすのもいい」と安楽死を考え直してもらうように説得したこともあった。 […]