瞑想と「ただ生きる」こと 
佐々木典士

瞑想をしているときは、単に呼吸だけに集中をする。鼻の入り口で空気を吸い込むところから、喉の粘膜を通るさまを感じ、肺に入りお腹の膨らむ様子を見つめる。今後はそれが反対の順で体から外に出ていく。

 

 

考えはあちこちに飛んでいってしまうが、それを何度でも呼吸へと引き戻してくる。それを続けていくうちに、脳は普段とは違う動きを見せるようになる。

 

寝ているのでもないし、起きているのでもない。何も考えていないわけではないが、それは海中で呼びかけられる声のように鈍く曖昧で、意識の中心で起こっていることではなくなってくる。

 

瞑想が終わると頭はすっきりとし、目を開けると視力が回復したような、いつもの風景の解像度がアップしたように感じられる。

 

 

瞑想をすると、普段の自分が感じていることに敏感になり、集中力も高まると思う。それは瞑想が自分が「何かを考えてしまっている」と思うと、何度もそれを中断して、呼吸に戻す行為だから。自分が何かを考えてしまっていること自体を、第三者的に感じ取ることだからだと思う。

 

 

そんな風にさまざまな効果は瞑想に確かにあると思うのだが、そんな効果を目的にして取り組むのは何か違うような気もしてきている。

 

 

人として生きるということは、仕事や家事に追われていたり、何か課題や目標があったり、何かしらの「目的」を見据えながら日々行動していることが多い。

 

 

「目的」のために生きる。すると何をするにも意味が必要な気がしてくる。瞑想にはこんな効果や意味がある。だからそのためにやる。

 

 

今日瞑想をしていると、心臓の鼓動を感じ、意識せずとも続いている呼吸を感じ取った。呼吸で取り入れた酸素が、体中に染み込んでいく様を想像する。

 

 

熱くも寒くくもない。お腹が減ってもいない。

目的と目的の中間で、ただ生きている。

本当は、こんな瞬間はたくさんあるはずだ。

 

 

動物が目的のためでなく、ただ生きているように。

就学前の児童が自分の感覚を頼りに、ただ生きているように。

 

 

もう一度こんな体験をしたい。そう思ってただ生きていることを感じる「ために」瞑想をするのなら、そこでまた不埒な目的が生まれてしまう。

 

ただ生きることは難しいことなのだろうか、簡単なことなのだろうか? 今のぼくにできるのは、その片鱗にほんの一瞬触れることのようだ。

 


 

小池龍之介『「自分」を浄化する坐禅入門』

瞑想の方法を聞かれたときにおすすめしているのが

小池さんの月読寺で、座禅セッションを受けること。

本のバージョンがこちらだが、気になっている方には体験を勧めます。

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この記事を書いた人

作家/編集者。1979年生まれ。香川県出身。『BOMB!』、『STUDIO VOICE』、写真集&書籍編集者を経てフリーに。ミニマリスト本『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』は25カ国語に翻訳。習慣本『ぼくたちは習慣で、できている。』(ワニブックス刊)は12ヶ国語へ翻訳。