修行そのものが悟り 佐々木典士

 一週間に一度ぐらいはサウナに入りにお風呂に行く。でも、ここしばらくものすごく「ととのう」という体験をしていない。

 最初にぼくがサウナを体験したのは℃(ドシー)というゲストハウスとサウナが一体化した施設だった。ロウリュもあり、よく考えられていた施設だったが、水風呂ではないし、外気浴できるようなスペースもなくサウナの施設としては、理想的ではなかったかもしれない。

 しかし、初めての体験だったのでガンギマリだった。サウナにハマった当初はまさに「宇宙まで飛ばされる」感覚がよく味わえた。あの感覚をぜひまた味わいたい、と思って行くと期待はずれに終わることが多い。

 そうすると、だんだんサウナにうるさくなってくる。水風呂がちゃんと冷たいこと、サウナがしっかり暑いこと、リラックスできるスペースがあること、など整う条件の揃っているところでないと嫌になってくる。

 それでも、それを上回るように自分の身体はサウナに慣れていってしまっている。90℃のサウナ室と15℃の水風呂を往復するという自然界では決してできない行為が「ああ、たまに起こるよね」と身体に覚えられてしまっている感じ。

 ぼくは普段、疲れすぎないようにしているので、それも大きいと思う。サウナは二日酔いで調子が悪いぐらいの時がととのうと言われたりする。完全に整い、疲れが取れた状態で次の日サウナに行ってもあまりととのわない。

思えばセックスもそうかもしれない。オーガズムは確かに頂点のような快感が伴うが、それだけを目指すのはなんだか何か違う。飽きもでてくるし、いつかはできなくなることでもある。

 自分でゴールを設定して、それを達成することを目的にすること。毎回達成できればいいが、そうではないときに幻滅することになる。サウナで整ったとは言えなくても、じんわりとリラックスできるのは嬉しい。たとえセックスでイカなくとも、ハグをするだけでも意味はある。

 習慣もそうだ。何かが「習慣」になったという状態、ゴールが味わいたくなる。(基本的に○○日間続けたら習慣になる、というのは幻想だと思っておいてください)。100日チャレンジでいちばん大切なのは、それを達成したとして101日めにどうするかだ。そこでやりたくないと思うことは習慣ではない。

 そして習慣になったと思った習慣も、いつか崩れる。たどり着いたと思ったゴールは、はかないものになってしまう。だからぼくは、習慣とは習慣にしようとし続ける行為のことだと「ぼく習」の中で書いた。何度も崩れながらも、それでも習慣にしようとする中に、習慣の本質がある。

 何かゴールのような状態を目指して、そこにたどり着きたいと思うこと。「悟り」というのもそうだと思う。いつか「悟った」という状態を体験してみたくて、修行に励む。

 曹洞宗の道元は「修行そのものが悟り」だと言ったというが今はこの言葉がわかる気がする。悟りなんて状態は訪れないかもしれないが、それにむかって修行していく過程が尊い。過程の中に悟りが宿る。

 自分の意志で、自分で設定できるゴールなんていうのは、あったとしてもはかないもの。もしくはただの言葉なのかもしれない。

この記事を書いた人

作家/編集者。1979年生まれ。香川県出身。『BOMB!』、『STUDIO VOICE』、写真集&書籍編集者を経てフリーに。ミニマリスト本『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』は25カ国語に翻訳。習慣本『ぼくたちは習慣で、できている。』(ワニブックス刊)は12ヶ国語へ翻訳。