ストーリーで買う、ストーリーで手放す 佐々木典士

 レストランに行って「ブルターニュ産オマール海老のポワレでございます」とかなんとか言われながら一皿出されたとする。フランスのどのあたりがブルターニュ地方かよくわからなくても、ヨーロッパの青い海でピチピチ跳ねていた海老がはるばるやってきて、訓練されたシェフの手にかかって大切に料理されて目の前に出てきているのかと思うと、味以上の何かを楽しめる気がする。

 こういう風に単に商品やサービスを消費するだけではなく、それに付随するストーリーを提供する/楽しむことはずいぶん前から行われている。

 スーパーに行けば、にっこり笑った作業着姿のおじさんの写真とその人の名前がついた野菜が売っている。「私が丹精込めて作りました」という宣伝文句を見れば、生産の現場を少し想像したりする。

 ぼくがマツダのロードスターを楽しんでいるのは、その開発秘話、たとえばトランスミッションはどういうすったもんだがあって開発されたということを知っていたりするからでもある。そうすると操作しているだけでなんだか嬉しい。

 こういう価値は「意味的価値」と呼ばれたりして、開発陣のインタビューやストーリー付けを今は車メーカーのような大企業自体が意図的に、積極的に行っている。

 いちばんいいのは、小さい商売をしている人にお金を払うことだろう。そうするとお金を払った相手がどんなことに使うのかまで想像できたりする。子供がいる夫婦2人がやっているゲストハウスに宿泊すれば、自分の払った宿泊代が今月の子供のミルク代になるのかなと想像したりしてお金を払っても嬉しくなる。友達や知り合いに払うお金も嬉しいものだ。それは狭い世界をぐるぐる巡っているだけでいつか自分にも帰ってくるものだから。

 ぼくはモノを手放すときに無料であげるのが好きだが、それはその時に得られるストーリーが嬉しいから。

 たとえば、以前このブログでも募集した軽自動車は京都にお住まいのご夫婦に譲ることになった。ちょうど、ミニマリズムがテーマのお家を建築中で、それを見学させてもらったり、昼ごはんをご一緒したりもした。お家が完成した時には、家の前に停めた車の写真もわざわざ送ってくれた。中古車のチェーン店に売れば、いくらかにはなったかもしれないが、誰にもらわれていくのかはわからない。それよりもストーリーが欲しいのだ。そうすると思い出して嬉しくなる、ほっこりする。

 twitterでいらなくなったモノをあげることも結構あるが、そのときも自己紹介だけはしてもらうようにお願いしている。顔を合わすわけではないが、どんな人にもらわれるのかだけが知りたい。そうすれば、あのマットレスはあちらの娘さんが、机はどこそこの息子さんが使っている、などと後で思い出せて嬉しいから。

 今は実家の片付けをしているが、ジモティーをよく使っている。対面で直接手渡せるのがいい。母が嫁入り道具で持ってきたマホガニーの化粧台はDIYが得意な夫婦にもらわれていった。甥っ子姪っ子たちが使わなくなった人形のおもちゃは小学生と2歳の女の子が遊んでいるだろう。

 そういうふうにまだ使えるモノを粗大ゴミとか、燃えるゴミの日に出すのは苦しい。もうできる気がしない。自分は必要ではないが、必要としている誰かに無料でいいので、手間がかかってもいいので届けられると嬉しい。

 買うときだけでなく、手放すときもこんな風にストーリーがあれば手放せる。何かのストーリーを読んだり見たりしてほっこりしたり、嬉しいと思うこと。考えてみれば、ぼくたちは小説や映画で、そんなストーリーを散々お金を出して買っているのだった。

 買ったものがいくらで売れたとかも、もちろんいいが、お金を使って等価交換ばかりしていると感情が歪んでしまう。地味に沈み、盛り上がる感情の波を補足できなくなってしまう。

 ぼくたちのやることなすことは結局、「感情」というアウトプットに着地するしかない。モノを手放す時にわざわざ手間をかけ、無料であげることは、金銭的にも時間的にも損をしていると考える人もいるだろう。でもそれで着地したものが「嬉しい」という感情なら、結局は正解ということになる。

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この記事を書いた人

作家/編集者。1979年生まれ。香川県出身。『BOMB!』、『STUDIO VOICE』、写真集&書籍編集者を経てフリーに。ミニマリスト本『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』は25カ国語に翻訳。習慣本『ぼくたちは習慣で、できている。』(ワニブックス刊)は12ヶ国語へ翻訳。