申し訳ない気持ちはどこから来るの?① 佐々木典士

 Tetugakuyaさんの哲学対話「申し訳ない気持ちはどこから来るの?」に参加したので、考えたことをまとめておきたい。

人が「申し訳ない」と思う時には様々なバリエーションがある。

・相手の期待に答えられなかった
・果たすべき努めを果たしていない
・自分の方が楽をしている
・過失があった

等価交換していたら申し訳ないとは思わない

 ぼくは基本的に、自分の方が多く受け取っているとき、何か負い目や負債がある時に「申し訳ない」と感じると思っている。

 対話の中で、バスの運転手には申し訳ないと思わないけれど、例えば友達の父親に車で送っていってもらったら「申し訳ない」と思うと言っていた方がいた。

 等価交換をしている=貸し借りなし、だと思えた時に人は申し訳ないとは思わない。バスに乗るのには料金を払っているし、バスの運転手にとってはそれが仕事で給料を得ている。バスの運転手にありがとうと礼を言うことはあっても、申し訳ないとは思わない。

 子どもを育てていらっしゃる方がいて、電車を使うときに、ベビーカーを運んでもらったら申し訳ないと思うという方もいた。

 初対面の人間にはこちらが過去に何かしたあげたわけではないので、その借りを返してもらっているわけでもない。ベビーカーを運んでもらっても、その対価を支払うわけではない。だから申し訳ないと思ったりする。

 一方で、同じ方が夫が皿洗いをしてくれたとしてもそれで申し訳ないと思うことはないと言っていた。してくれなかったら困るのでありがたいんだけれど、それで申し訳ないとは思わないと。

等価交換していたら、人との関係性も生まれない

 ぼくは人と人とのつながりは、どちらがより多く受け取ったのか、借りがあるのかよくわからなくなった時に生まれると思っている。田舎にいると、膨大なおすそ分けとそのお返しがある。旅行に行ったら、友人や家族にはお土産を買ってくる。もちろんその代金を受け取るわけではない。次にその友人や家族が旅行に行ったら、お土産を買ってきてくれてただそれを受け取るだろう。

 膨大な贈与とその返礼がなされる中で人とのつながりが生まれてくる。チェーンのコンビニやスーパーの店員となかなか仲良くなれないのは、負債の即時返済=等価交換を行っているから。小さいお店ならおまけやサービスをする自由があり、つまり贈与をする権限があり、その負債を返すためにまた行こうと思うので、関係性が生まれやすい。

 夫など親しい人に対しては、申し訳ないと思わないというのは、生活の無限のやり取りのなかでどちらのやった仕事が多いか、返すべき負債が多いかなど計算できなくなっているからだと思う。(給料を入れる代わりに家事をしない、共働きなのに家事の分担が不平等という問題もあると思うがこれはまた別の話で)。

 精算しようにもあまりにもやり取りのレシートが多すぎて、どっちが得してるとか損してるだとか計算するのはもう放棄!となっている状態が人がつながっている状態だと思う。そうなると、何かしてもらっても申し訳ないとはもう思わなくて良くなる。

相手から「申し訳ない」を引き出したいとき

 「申し訳ない」という言葉を求める社会であるという問題も話の中で出てきた。会社で下っ端として働いている時、新人だったりいちばん下の立場ならミスもするだろうし、教えてもらうことばかりで負い目を返せないだろう。だから「申し訳ないです」を連発していたという。

 そこでは負い目を返すために何も支払えるものがないなら「申し訳ない」ぐらい言えという圧力もある。(「ありがとう」ぐらい言え、感謝ぐらいしろというのも同じ等価交換を求める問題で、ありがとうも思ったほど良くない)。

 申し訳なさを求めるのは、利息だけでも取り立てていこうとするサラ金みたいなものかもしれない。もう支払えるものが何もないという証拠でもあるので、言う方にとっても、さらなる追求を逃れる手段、やりすごすための手段にもなりうる。

 「申し訳ない」という言葉を引き出した方にとっては責任の所在を明らかにできたことで、自分に落ち度がないと安心できるかもしれない。

ただ世界がそのようにあってほしい

 しかし、自分には負い目がない、責任があるのは他の誰かだと思える人は、過去に受けた贈与をただ忘却しているだけだと思う。自分が子どもだったとき、泣いてまわりを迷惑に思わせたはずだ。自分がベビーカーに乗っていたとき、見知らぬ誰かが手助けしそのまま去っていったはずだ。だから子どもを育てることにどうか「申し訳ない」と思わないでほしい。自分が生意気で失礼な新人だったときも、先輩が辛抱強く教えてくれた。自分がその先輩になる番がいつか来る。

 そして負い目というのは、直接の相手に返すだけではなく見知らぬ誰かに返すこともできる。初対面の人にする親切は、初対面の人から受け取ることだってある。礼も謝罪もいらない、ただ世界がそのようにあってほしいと思うからそうするという世界。

 でも何にも言わないのもリズムが悪いかもしれない。日本で溢れている「すみません」「申し訳ない」「ありがとう」の代わりに何か言うとして「お互いさま」はどうだろうと考えた。初対面の人間に親切にされたとき「お互いさまですから」と言われることもある。「お疲れさま」を言う頻度ぐらいで「お互いさま」を言うようなったら? 遅刻してきて開口一番「お互いさま!」。言われた方は「なんだ、こいつ!? ぐぬぬぬぬ」と思いながらも自分も確かにそういう時もあるしで負けじと「お互いさま!!」と言い返し恨みっこなし。迷惑をかけかけられてもお互いさまだから、申し訳ないなんて思わなくていい。もうちょっと素敵な世界になると思うのだが。

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この記事を書いた人

作家/編集者。1979年生まれ。香川県出身。『BOMB!』、『STUDIO VOICE』、写真集&書籍編集者を経てフリーに。ミニマリスト本『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』は25カ国語に翻訳。習慣本『ぼくたちは習慣で、できている。』(ワニブックス刊)は12ヶ国語へ翻訳。