卵かけご飯のジレンマ 佐々木典士

1人で食べる昼食は簡単なものでいいと思う。実際に、お弁当を持って図書館に行っていたときは毎日同じものを持参していた。フィリピンでもランチに食べるのは毎日スパム丼だった。卵かけご飯でもいい。簡単だし、いつ食べても美味しい。

母親は料理が得意で、特に苦にもならないようでただの昼食に4品も5品もおかずが並んでいたりする。その母親でも、自分ひとりで夕食を食べるときには、納豆とご飯とあとは漬物でも適当に食べていたりする。

自分ひとりのためにはなかなか時間をかけた凝った料理をする気にならず、シンプルなモノで充分満足。しかし誰か一緒に食べる人がいると少しは料理もしようと思う。自分ひとりのためではなく誰かのために何かをしようとすると意志力が生まれるからだ。これを「卵かけご飯のジレンマ」と呼んでいる。

映画『100日間のシンプルライフ』は主人公のペトリが持ち物をすべて倉庫に預け、1日1つだけ持って帰ってくる、というのが物語の要旨。その途中でペトリはある程度の数のモノで満足してしまう。だがガールフレンドとデートする段になって、自分の服や靴がようやく気になりはじめ、追加で倉庫に自分の服を取りに行く。誰かと共にいることを意識すると、自分の行動に変化が生まれる。

ぼくもなんだか自分の人生に満足してしまっていた。美味しいものは東京でたくさん食べた。海外で美しい景色もたくさん見た。書いた本は驚くほど多くの人に読まれた。ありがたいことだが、それで意志力は薄くなってしまったと感じていた。もとよりガンガン稼いでやろうとか、有名になってブイブイいわせてやろうという思いが薄いせいもある。しかしどうやら自分ひとりの満足度というのは、それほど大きな器ではなく人生の途中でも充分に満たせてしまうものらしい。

コロナ禍を実家で過ごすうちに、地元のコミュニティにも顔を出すようになった。馴染みの店ができたり、仕事を手伝ったりもするようになった。ボランティアだし、お金が出ていくことも多いが、ありがたいことにいちばん大切な意志力が戻ってきたと感じたりする。誰かのためなら、動ける。他の誰かというのは、いつまでたっても満たすことは到底できない大きな器だ。

次の本はお金がテーマだが、お金は人間が生み出したいちばんのイノベーションではあるものの、人が持っている生来のものを歪ませてしまうと思う。銀行口座は各個人が持ち、管理するものだから、それがマイナスにならないように生き終えられれば人生ゲームクリア。そのために各自うまくやっていきましょう、解散!! というのが時代の気分だ。

お金を生み出す原資は時間だから、その大事な時間は気軽に人にあげられないものになってしまう。バカとは付き合うな、役に立たないものは切り捨てろ! というメッセージがポジティブに聞こえる時代だ。自分も事実、そうしてきた部分が多いにある。ミニマリストだって一般的にはそんなイメージで捉えられているだろう。その方針で、首尾よく生涯安心できる資産を作れたして、肝心要の生きる理由がなくなってしまっては元も子もない。

鶴見済さんが、
良い人間関係>ひとりでいること>悪い人間関係
という定式(引用はぼくの理解です)を言われていたが、その通りだと思う。自分がいたずらに消費されて、貶められてしまうような人間関係だったら断ち切って、ひとりでいるほうがよっぽどマシだ。しかしそこから回復し、ひとりでいることにも満足したら、その後は、自分が貢献でき、意志力も培われるような人間関係の構築に向かった方がいいのかもしれない。それには時間もエネルギーも必要だ、お金もかかり、煩わしいこともあるだろう。それでも、自分をこの世につなぎとめてくれるような存在は必要なもののように思う。

ここのところのぼくは、かつての自分が切り捨てていたことを拾い集めてばかりだ。

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この記事を書いた人

作家/編集者。1979年生まれ。香川県出身。『BOMB!』、『STUDIO VOICE』、写真集&書籍編集者を経てフリーに。ミニマリスト本『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』は25カ国語に翻訳。習慣本『ぼくたちは習慣で、できている。』(ワニブックス刊)は12ヶ国語へ翻訳。