申し訳ない気持ちはどこから来るの?② 所有も生年月日もない世界 佐々木典士

誰かの時間を使うという申し訳なさ

 日本にいると「申し訳ない」という気持ちに触れることがめちゃくちゃに多い。たとえば、誰かの時間を使ってしまうことに対する申し訳なさと言ったら世界一かもしれない。

・電車が1分遅れて到着すると「お急ぎのところ、申し訳ありませんでした」というアナウンスが入る。
・コンビニで30秒待つような事があれば、別の店員がレジを開けるべく駆け足でやってくる。
・車に乗って交差点を左折しようとすると、横断歩道を歩いている中学生が車を待たせてはいけないと小走りで渡ろうとする。
・車を入れてもらったら、お礼にハザードを出すという風習。

こういう生活に慣れていると、たとえばぼくが住んでいたフィリピンに行くと面食らってしまう。

・軽くスーパーで買い物でも、と思うとレジが遅く1時間かかったりする。
・スタバにて。提供されるのは日本と同じ飲み物で、スタッフの人数も充分にいる。なぜだかよくわからないが大体日本の4倍ぐらい待たされる。

 最初、日本人は困惑する。日本ならもう待てん、限界だ! と思う時間×3ぐらい待たされるからだ。だが、まわりを見渡してみると、店員もお客を待たせて申し訳なさそうにもしていないし、お客も待つことでイライラしている様子もない。イライラしているのは自分一人だけ、そのうち自分の一人相撲なのだと理解する。無限に引き伸ばされた時間の中では自分もイライラしないのが得策だと思えるようになる。そのうち店員も誰もかれも申し訳なさそうにしていないのが、心地良くなってくる。

 どうやら、彼の地では「時間」というものの価値が少し違う。熱帯だと美味しいフルーツが勝手にそこらへんにできるし、魚も釣れる。凍えて死ぬ心配もないので、家も簡素なものでよい。だから、みんなのんびりしている。時間は潤沢にあり、潤沢にあるものは人にあげてもイライラしない。だいたいそのような理解が一般的だ。

生年月日のない世界

 奥野克己さんの『ありがとうもごめんなさもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』を読み、さらなるヒントをもらった。奥野さんがフィールドワークをしたのは、マレーシアのボルネオ島に住む狩猟採集民の「プナン」。狩猟採集民ではあるが、Tシャツを着て、最近は主食やお酒を買ったりするのに現金も使うこともある。それでもその文化は日本や他の先進国で自明とされているものとは全然違う。

 たとえば、プナンの人々は自分の生年月日を知らない。ただ、誰よりも先に生まれたとか、後に生まれたとか大まかなことだけは把握している。想像しづらい状況だが、生年月日を知らないということは、少し考えるとなんとも痛快ではないかと思えてくる。当然そこでは平均寿命なんていうものもない。

 ぼくたちは、自分の生年月日を強く意識している。日本人の平均寿命はこれぐらいだから、自分の残りの命は大体何年ぐらいだと見積もれる。何歳で退職して、残り何年生きるからどれぐらいのお金が必要でとか、確定申告はいついつまでにとか、この仕事の締め切りがいつとか、分節化された時間とその期間で達成すべき目標もまた強く意識する。

 プナンの子どもに「将来の夢は?」と聞いてもポカンとするそうだ。意味がわからないと言ってもいいのかもしれない。狩猟採集民になりたい職業を聞いても意味がわからないだろう。生きることは食べることであり、食べ物を取ってきてそれを食べることが生きることだからだ。時間が大事になったのは農耕が始まってからのこと。いつ種を植えるべきかと季節を意識したり、穀物の貯蔵ができるようになったら将来を心配することが「できて」しまうようになる。

反省のない世界

 プナンの人々はどうやら反省もしない。何か問題が起ったとき、話し合いの場がもたれることはあるが、誰々が悪いと、個人の責任を問うことはなされない。

 選べる職業が無数にあり、膨大な目標があり、そのために無限に分節化された時間の中で生きていると「反省」というのは大事な要素になってくる。未来にある目標を達成するためには、しでかしてしまった過失を次に起こさないようにすることが大事だ。何が自分の落ち度だったのだろう、何が良くなかったのだろう、改善すべきポイントは? 無限の反省を行うことが美徳になる。

 自分の悪かったところを認めるのが美徳になると、それが行き過ぎて病気になる人が出てくる。一方プナンには反省がないので、精神病や自殺はほぼない。フィリピンは日本より遥かに貧しい国だが、10万人あたりの自殺率は日本の6分の1。とにかくみんなニコニコしている。

所有もない世界

 誰かの時間を奪う以外に申し訳ないシチュエーションも考えてみた。たとえば、誰かの車を借りて、それをぶつけてしまったらすごく申し訳ないと思うだろう。

 奥野さんによれば、プナンはバイクを借りて、パンクさせても何も言わずに返す。タイヤに空気を入れるポンプを壊してしまっても、そのまま返す。ここでも反省していない。

 なぜかと言えばそもそも「所有」の概念がないから。奥野さんが持ち込んだサンダルや、カバンは勝手に使い回されて帰ってこなかったりする。持ち込んだラーメンや缶詰なども勝手に食べられている。

 悪気があってやっているわけではない。そこにあるものは誰か個人に属するものではなく、いつも全体のものなのだ。獲物を取ったときに、仕留めた人やその狩りで果たした役割が大きな人が大きい部位を取ったり、美味しい部位を取るわけではなく完全に平等に分けられる。今回の狩りで活躍できたとしても、次もまた同じようにできるかどうかわからない。目の前にいる活躍できなかった人は常に自分だった可能性がある。だから平等に分けるのがいちばんいい。そして誰も負い目を感じる必要はない。

 ただモノだけではなく、個人の知識や能力もまた共同体に属するもので、その人の所有物ではない。おそらく「時間」もそうだろう。所有の概念がなければ、そもそもそれを使うことに申し訳ないとは思わない。

 フィリピン人と過ごしていて、よく日本人が怒るのは「借りた金を返さない」ということだ。現地にいた日本人同士でよく話していたのだが、食事をおごったとしても彼らはお礼を言わない。

 日本で上司におごってもらったとしたら、その場で「ごちそうさまでした」と言い、お礼をすでに言ったにも関わらず翌日もまた上司のデスクに近寄ってダメ押しで「昨日はごちそうさまでした」と言ったりすることが求められる。何も返さないなら、お礼ぐらいは言う、ありがとうという感謝の言葉だけは言うというのが美徳だ。

 フィリピン人はもちろんプナンよりも貨幣経済や資本主義に組み込まれて過ごしているが、地理的にも近く、大家族で過ごしており、日本人ほど「所有」の概念が強くない。だから「誰の」お金でその食事が支払われるかに、そこまで意識的ではない。ただ支払われるお金がそこに存在しているだけという感覚はプナンと似ている。

ありがとうという言葉がない世界

 フィリピン人は英語が堪能だし、もちろん現地の言葉にも「ありがとう」という意味の言葉はある。ただ自分以外の誰かが食事代を払うというのはそれを使う機会ではないようだ。プナンはもっと徹底していて、そもそも「ありがとう」にあたる言葉がない。ただ「よい心がけだ」だと言う意味の言葉がある。

 負い目を感じそれを返すための「ありがとう」という言葉を使うのではなく、ただ相手の行為をよい心がけだと言う。それもまた世界がそうであってほしいという願いのようなものだと思う。

 フィリピンから久々に日本に戻ってくると、冒頭のハザード文化に面食らった。以前はぼくも同調圧力に負けて何回かやったことがある。今ぼくは自分が車で入れてもらっても、決してハザードを出さなくなった。それは世界にとってその状態が当たり前であってほしいと思うからだ。そういう世界に一票を入れるような気持ちだからだ。

この記事を書いた人

作家/編集者。1979年生まれ。香川県出身。『BOMB!』、『STUDIO VOICE』、写真集&書籍編集者を経てフリーに。ミニマリスト本『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』は25カ国語に翻訳。習慣本『ぼくたちは習慣で、できている。』(ワニブックス刊)は12ヶ国語へ翻訳。