子猫がすべてをなぎ倒す 佐々木典士

積み上げられたタイヤの中で

友人からLINEが入る。ぼくが住んでいるアパートの敷地で、子猫が見つかり、ずっと鳴いているという。日本みたいに、野良猫、野良犬はかたっぱしから捕獲!という感じでは全然ないフィリピン。だからそういう動物はたくさんいて、去勢もされていないから街中でもお腹の大きい犬猫をよく見かける。

その場所に駆けつけると、物置き場の積み上げられたタイヤの中で子猫が鳴き続けている。母親がそこで産んだらしい。物置き場には鍵がかかっていたが、鍵を開けてくれそうな人も不在だったので、金網をよじ登り救出。手元にあった牛乳をペットボトルの底を切って作った容器に入れて飲ませようとするが、飲んでくれずただ鳴いているだけ。

母猫はどこへいってしまったのか。とりあえずは、ダンボールに入れ、屋外に置いたままどうにか母親が見つけてくれることを期待する。しかし、間もなく母親が死んでしまっていることがわかった。車の下ですでに死んでいて、車を動かしたときに亡骸を見つけたのだ。母猫のしっぽは特徴的に折れ曲がっていて、それに見覚えのある方が確認してくれた。そのしっぽの特徴は子猫にも受け継がれていて、お腹が大きかった時期から考えても母親に違いない。

すぐに1匹なら飼えるかも、家族と相談するね、という人が名乗り出てくれたので、その結論が出るまではと思い自分の部屋に連れて帰る。屋外では他の猫や動物に襲われてしまうかもしれないからだ。ぼくは自分の家では仕事ができないので、毎日カフェに行っているのだが、通勤しなければいけないわけではないし、今は締め切りのど真ん中というわけでもない。自分が預かるのが客観的に見ていちばんいい。仕方がない。

ものすごいアワアワする

まず、ミルクを飲んでくれないのが問題だ。母親の腐敗状況から考えて、この2日〜3日ほどは何も口にしていない模様。白い方の1匹は、衰弱しているように見える。

ぼくはこういう生き物を飼うのに、向いているというか、全然向いていないというか、見つけるとものすごいアワアワして、あらゆる準備を始めてしまう。今回も街中を走り回り、乳糖抜きの牛乳(普通の牛乳は猫はうまく消化できない)、哺乳瓶、スポイトなどを購入した。

片付いた部屋も一気に混沌に

しかし人間用の哺乳瓶だと大きすぎ、スポイトでも舌の上に乗せた数滴の牛乳を飲み込んでくれる程度で、母親を探して鳴き続けていた。どうしたら飲んでくれるようになるのか、子猫の育て方をGoogle検索しまくる。

次の日は近くの獣医を見つけ、連れて行く。まだ小さすぎてできることはないということだったが、今のところは健康だということだった。ここで猫用ミルクを売っていたので、それを買う。これがよかった。やはり専用のものは味がよいのか、少しずつミルクを飲んでくれる量が増えていき、弱っていた猫も元気を取り戻していく。小さな手で哺乳瓶に抱きつく猫。本当に愛らしい。

先に、名乗り出てくれた人はやっぱり飼えない、ということになった。残る手段はFacebookで呼びかけること。しかし、少しの間だが飼ってみて、3〜4時間おきにミルクをあげる必要があるし普通の人では持て余してしまうのでは思った。プロに任せたほうがいいかもと思いそしてまた検索。街の中でいくつか、捨てられた犬猫、怪我をした犬猫を預かっている団体がある。そのうちの一つにFacebookを通じて連絡を取る。

しかし、返事はない。読んではくれているようだが、無視される。その内に、自分のアパートを管理している人がぼくの部屋をノックした。子猫の鳴き声が聞こえていたのだろう。部屋で動物を飼うのはダメだし、その辺にいる猫に餌をあげることも禁止されている。とりあえず、今は預かってくれそうな団体に連絡を取っているので、2,3日待って欲しいと伝えた。あなたたちも、母親が死んでいるのを見たでしょ! とか、かわいい子猫を彼らの手に載せたりして説得工作し、その場をごまかした。

フィリピンでは、生き物の命がものすごい勢いで明滅している。死んでは生まれ、生まれては次々に死んでいく。日本では隠され、さもなかったことにされているような生き物の死が、その辺にごろんと置かれている。だからある意味でドライというか、自然淘汰だと考えてこういう場合に放っておくことも多いのだろう。(だからこそというかペットを気軽に、たくさん飼っている人も多いのだが)ぼくが連絡を取っている団体が無視するのも、こういう案件にいちいち対応できないということかも、と変に納得してしまった。

少し絶望する。子猫が来てからというもの、仕事はできなかった。ミルクをあげることはできるが、母親を探して鳴いているときは何もしてあげられず、それを聞くことしかできない。このアパートで飼えないし、飼い主が見つからなかったら? ミルクしか飲めない子猫を外に放置することは殺すのと同じことだ。最悪自分が苦しまないように殺すしかないのか? そんな妄想をしてしまう。

子猫がすべてをなぎ倒す

しかし、子猫は迷惑をかけられるだけの存在ではなかった。ある人が、いま争っている各国が団結するためには地球外からエイリアンが襲ってくるとか、隕石が落っこちてくるとかそういう外部から来る緊急事態が必要だと言っているが、本当にそうだと思う。より大きな事態を解決するためには、細々としたことで争っている暇はない。

少し疎遠に感じていた人間関係や場所があったのだが、気まずいとかなんとか言っていられず連絡したり、協力を仰ぐ。子猫は無力な存在だが、自分のしょうもない戸惑いを嵐のようになぎ倒していく。近所の子どもたちも朝晩ぼくのアパートに来て猫をさわりにやってくるようになった。

今思うと、不思議な充実感もあった。自分1人のためだけには、うまく生きられないなぁとよく思うからだ。いつもはどうとでもなれと、弾丸のように飛ばしているバイクも「今自分に何かあったら、誰が子猫にミルクをやる?」とか思ってゆっくり運転したりした。

無駄かどうか人に決められるのか

無駄を排除し、自分のすべきことに集中する。ミニマリズムのキーワードだ。わずらわしい物の管理は減らしたい、それは今も変わらない。しかし、最近は何が無駄で、何が自分のエネルギーになるのか、人間が頭で足し算引き算できるような単純なものではないのではないかという気がしている。人から見たら無駄な雑事が生きがいになっている人だって多いだろう。

基本的に、人間が生きる根源的な意味なんてないと思っている。それは宇宙に漂っている網のようなものだと思う。網の端はどこにも結ばれておらず、ただフワフワと浮かんでいる。根源を探そうと網をいくら辿ってみても、確かな理由は見つからない。そして個人は他の誰かのため、その網を形作る結び目としてのみ、生きる意味を見いだせるのではないだろうか。どちらかというと人を遠ざけがちなぼくですらそう思う。

無駄かどうか頭で考えてしまうと、介護が必要な人は、無駄ということになってしまうかもしれない。子どもを育てるのも、猫を育てるのも自分がやりたいことの効率を落とす行為になってしまうかもしれない。しかし、そこから受け取るものが確かにある。無償で引き受けるボランティアはただの時間とエネルギーの浪費ではない。それで喜んでくれた誰かの笑顔から次へのエネルギーをもらえるのが人間だからだ。

拾う神あらわる

連絡を取った団体からは、しばらくしても返事がないので、別の団体に連絡を取った。すぐに連絡があり、次の日の朝、別の獣医のところで会いましょうということになった。人に預ける前に寄生虫の駆除が必要ということだった。捨てる神あれば拾う神あり。最悪の事態は免れ、本当にほっとする。

次の日の朝、猫をかわいがってくれた人たちとお別れをし、獣医に連れて行く。会ったのはイギリス人の女性クリスティーンと、フィリピン人の男性ロビーというカップル。本当に仕事が早く、なんとすでに預かってくれる人を見つけたという。嬉しさがこみ上げる。見捨てなくてよかった。天国があるなら、この人達全員が天国に行くべきだと思った。

獣医の話では、子猫たちは元気だし、身体もとてもきれいに保たれているのでしっかり母猫が面倒を見ていたんだろうということだった。亡くなった母猫の優しさを思う。

そして猫とお別れ。嵐は過ぎ去り、望んでいたはずの平穏さを取り戻すと、何かが失われてしまったように感じる。バスタオルには猫とミルクの匂いが残っている。猫が寝ているときは起こさないように、音を立てずに行動したりトイレに行っていたのだが、それをしなくていいことが今度は変に感じる。本当に、人間は矛盾した存在だ。

獣医から家に戻り、しばらくベッドで余韻に浸っていると、3匹目の猫を保護したと連絡が入った。この子は別の母親から生まれたのだが、育児放棄されてしまったようだった。

現実の筋書きは本当にめちゃくちゃだ、と思いながら先程別れたばかりのクリスティーンに連絡を取った。

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この記事を書いた人

作家/編集者。1979年生まれ。香川県出身。『BOMB!』、『STUDIO VOICE』、写真集&書籍編集者を経てフリーに。ミニマリスト本『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』は25カ国語に翻訳。習慣本『ぼくたちは習慣で、できている。』(ワニブックス刊)は12ヶ国語へ翻訳。