我慢を強いない国
佐々木典士

外国を旅すると、その国のいいところばかりが目に入ってくる。もちろん住めばまた違うだろう。しかし、自分の国の残念な点がやはり気になってしまう。

 

今回は6泊9日のトルコ旅行。ニューヨークと同じく、ラッシュ時のイスタンブールは渋滞していてクラクションが飛び交っている。車間距離もツメツメだ。さらに歩行者は縦横無尽に道路を渡る。

 

現地の日本語ガイドさんは、この様子を見てトルコ人は「自分が第一」だと考えていると教えてくれた。まずもって「自分に優先権がある」と思っていると。

 

帰りの飛行機の中でその一端に触れた。巨漢のトルコ人が隣に座った。お腹周りはぼくの2倍はある。当たり前だと思っているのか、気づいていないのか自分のクッションとブランケットをぼくの座席の脇に置き、自分は大きな身体を小さなシートにぎりぎり詰め込んで座っていた。

 

外国を旅して思うのはいつも同じことだ。

遊ぶように仕事をしている。

そしてサービスがシンプルだ。

 

ドバイ空港で出国管理官は、ぼくが日本から来たことを知ると「妹がいるので、冬に東京に行くんだが、おもしろいところか? つまらないところか?」と聞いてくる。適当に答えて行こうとすると、呼び戻されて話をもっとしようとしてくる。

 

トルコの出国管理官は「FUMIO!! いい名前だ。トルコ語は何か覚えていったのか?」と聞いてくる。どちらの管理官も仕事に自分なりの楽しみを持ち込んでいる。日本で同じ仕事をしている人が、そんな風に外国人に話しかけているとはとても思えない。

 

パスポートを投げてよこすのは当たり前だ。空港のインフォメーションに、航空会社のカウンターの場所を聞くと「H」とだけ答える。眼の前に人がいても、こちらが話しかけるまで同僚との話はやめない。教えてくれるときもこちらを見ていない。

航空会社のカウンターで、チェックインの時間を聞くと「3時20分」とだけ言う。もちろんこちらには目もくれず、面倒くさそうだ。

 

一方日本。帰国し空港からバスに乗ろうとする。

「ここでバスのチケットは買えますか?」と聞くと、

「乗り場はここから遠いですよ。購入されてキャンセルされる場合は……」

と肝心の質問に答えず、なぜか一周まわった気遣いを長々としてくる。だから

「ここで買えるんですか?」ともう一度聞くハメになった。

バスに乗り込むと、預けるスーツケースに丁寧にタグがつけられ、照合するタグがいちいち手渡されている。

 

 

日本のサービスは本当に世界一だと思う。

しかし、サービスをしている側は世界一我慢を強いられているのではないか?

 

普段仕事で我慢しているから、客の側に立ったとき、相手にも我慢を強いる。私はこんなに気を遣っているんだから、あなたにも気を遣ってほしい。

 

法律では禁じられているそうだが、トルコでは7〜8割の人がノーヘルだ。

 

ミニマリストはあえて選ぶ不便を普段から楽しんでいると思う。ぼくは手ぬぐい1枚だけをタオルとして使っていたぐらいだから、ホテルのタオルがペラペラだろうがなんだろうが気にならない。ゴミを増やしたくないのでアメニティはいらない、自分で持っていく。エネルギーも無駄にしたくないから、短い滞在でシーツの交換なんていらない。普段泊まるのもホステルだし、キャンプや車中泊にも慣れている。ぼくの感覚はずれているのだろう、日本人が普通のホテルに期待するものはそれとは違うようだ。しかし、自分を丁重に扱ってほしければそれにふさわしい場所に行く必要があるのではないだろうか。

 

海外の人は、コンビニで丁寧な応対をされて感激したりするそうだ。そうだ、コンビニですら5つ星ホテルのような応対が期待されているのが日本だ。

 

海外でパスポートを投げてよこされても気にならない。「文化の違い」だからだと受け止められるからだ。この「文化の違い」を日本人同士でも適用できないものだろうか? 自分だったらそうはしないけど、このやり方がこの人の、個人の文化なんだなと。丁寧なサービスをするのが心から好きな人がいて、そうでもない人もいる。日本で入国審査官がパスポートを投げてよこしたら? やっぱり組織にクレームを入れるのがいちばん懲らしめられる方法だろうか?  そうしてマニュアルが増え、禁止事項が増え、全体が息苦しくなっていく。

 

帰国直後に見たニュースでは深々と頭を下げる姿が流されていてげんなりした。とにかく、誰かに謝ってほしい。いや、本当は誰も謝ってほしいとは思っていないのに、こういう場面ではこう振る舞うべきだと「空気」に決められているかのようだ。

 

トルコが居心地がよかったのにはいろいろ理由がある。親日で日本にゆかりを感じていてくれているところ。食べ物が日本人好みの味であること。野菜や果物が豊富、米もあるし、ヨーグルトも美味しい。そして他人をあんまり気にしてないところだ。

 

ぼくはミニマリストを経て、他人からどう見られているかあまり気にしなくなった。他人の心の中を勝手に想像しなくなった。仕事も自由気ままだ。その感覚が近かったから、居心地がよかったのだ。

 

自分のクッションや、ブランケットが隣にあっても気にしない。そういう相手には、こちらも肘があたったり、少々の迷惑をかけたりしても気にならなくなってくる。相手も自分も、我慢はしないのだ。

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この記事を書いた人

作家/編集者。1979年生まれ。香川県出身。『BOMB!』、『STUDIO VOICE』、写真集&書籍編集者を経てフリーに。ミニマリスト本『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』は25カ国語に翻訳。習慣本『ぼくたちは習慣で、できている。』(ワニブックス刊)は12ヶ国語へ翻訳。