焚き火と寂寥のミニマリズム    
沼畑直樹

 

「家具以外、何も置かれていない部屋」の写真に出会ってから、もう8年以上が経つ。

色づいた枯葉も落ち去った、東欧の田舎道の並木のような寂しさを感じる、その部屋の写真に惹かれたのは、凜と張り詰めたその空気を感じることができたからだ。

私は律儀にその風景を完成させるため、今も部屋をさささと片付けている。

 

家族暮らしの私にとって、何も置かれていない部屋を目指すのは難しい。少し気がゆるめば、すぐに物はどこかに置かれていく。

ある程度我慢しなくてはいけないときもある。たとえば、妻がずっと箱に入れていて放置していたものを二人で整理していて、いくつかのものを処分しようとしたとき。すぐには処分できないので、少しずつ妻がそれを分類したりするのだが、部屋が散らかるからといって残ったものを片付けてはいけない。片付けてしまえば、またそれは忘れ去られ、部屋の奥の暗闇を住まいとしてしまうからだ。

それでも、凜とした瞬間は訪れる。

今は秋だから、なおさらその瞬間は心地良い。PCの画面に集中しているとわからないが、ふと顔を見上げたとき、何も置かれてない部屋は、寂寥感がある。

部屋の電気を消して、寝室に入る直前に振り返ったとき。

暗闇に佇む「何も置かれていない部屋」の清々しさはいつ見ても素晴らしい。

寂寥。寂しく、凜としている。

 

 

10月のキャンプが豪雨のため中止になり、かわりに11月にデイキャンプをした。

神奈川の渓流沿いの山の中、ご飯のあとに、友人が持参した白樺で焚き火をした。

2時すぎには陽が山に落ちて、焚き火の温かさにありがたみを感じつつ、パチパチと鳴る白樺の音と共に、秋の寂しさが心地良い。

思えば、焚き火はいつも夜だった。

夏のデイキャンプでは木炭を燃やすだけで焚き火はしない。

焚き火は夜、明かり代わりに。

だけども、秋や冬のデイキャンプは、昼から焚き火をする。

地面を覆う絵画のような枯葉と、魔女の森のような枯れ木に囲まれた場所で焚き火をする。

今は都会では焚き火もできないから、とても懐かしい感じがして、昔の風景感、昭和感がある。

鼻のたれたチビッこが、焚き火のまわりで走り回り、枯葉でチャンバラごっこをしている都市の中の公園。

小さいころアニメで見たような、夕陽に染まる少年少女たち。

寂しい感じがするのに、情緒に溢れていて、幸せな光景。

昼の焚き火とは、とても豊かで、寂しい。

 

 

ミニマリズムとの出会いで見つけた大きな要素は、遮断感。

外界と今ある場所を分かち、感じる寂しさと清々しさ。

寂しいのに情緒を感じ、心が落ち着く。

 

私は寂寥感が好きだ。

遮断され、寂しく、何もないから。

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この記事を書いた人

『最小限主義。』、写真集『ジヴェリ』『パールロード』他(Rem York Maash Haas名義)、旅ガイド『スロウリィクロアチア』他

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