近内悠太『世界は贈与でできている』〜贈与が生む意志力〜 佐々木典士

「交換」が覆い尽くす社会

日本の地方を車やバイクで走っていると、どんな辺鄙な場所に行っても山にはトンネルが開き、道路は舗装されていて安全に走れることに驚く。山に登れば、登山道が整備され、石を積み上げて階段が作られ危険が避けられる。

この本を読むまではそれらについて、先人たちの努力をぼんやりとただありがたいなと思うだけだった。この本を読んだ後、それらは「贈与」だったのだと膝を打った。

贈与と相対するものには「交換」がある。交換はぼくたちの生活の隅々まで行き渡っている。コンビニで売っている100円のコーヒーに客は100円払う価値があると思い、コンビニは100円で売れば儲けが出る。お金とコーヒーが正しく交換されている。(ただの等価交換のはずなのに、お金は何にでも交換でき、腐らない「魔法の紙」なのだからと、お金を払うお客の方がなぜか偉そうにしていることも多い)

現代では、そんな風にあらゆるものに値段がつけられ、市場に売りに出されている。(本書の参考文献のひとつ、マイケル・サンデルの『それをお金で買いますか?』ではその奇妙な例がたくさん挙げられている。・インド人の代理母に子供を生んでもらう料金6250ドル ・刑務所で高級な独房に1晩82ドルでアップグレード、などなど)

だから何をするにつけても「交換する」ことが基準の思考になってしまう。そして値段がつく=交換できるものが多くなるほど、お金の求心力は高まる。いつしか、こんなことを常に自分に問うようになる。自分がやったことに対して、どれぐらいの見返りがあるのか? しようとすることのメリットとデメリットは何か? 払った労力やお金に対してのコスパは?

ボランティアは贈与ではない?

だから一見「贈与」に見えても違うものもある。たとえばボランティア。本書では、若い世代にボランティアは人気であるのに対して、献血が減っていることが指摘されている。それはボランティアは手助けした人から直接「感謝」がもらえるから。一方献血したとしても、輸血先の患者から感謝状が届くわけではない。感謝という金銭ではなく、目に見えないものであっても、それを自分の痛みや労力と「交換」しているのであれば、それは贈与ではない。

何が贈与かと言えば、たとえば親が子供を育てること。途上国なら話は違うが、日本で子供を育てることは自分が年を取ったときに面倒をみてくれるとか、そういった「交換」が行われる保障はすでにない。感謝されるどころか、お互い呪い合う関係になることだって珍しくない。だからこそ適切に愛された子供はそれを「不当に受け取ってしまった」ものだと思い、負い目や負債を感じる。自分が何かをした見返りに親から愛されたわけではないからだ。

さらに近内さんによれば贈与は「それが贈与だと知られてはいけない」ものだと言う。なぜなら

「これは贈与だ、お前はこれを受け取れ」と明示的に語られる贈与は呪いへと転じ、その受取人の自由を奪います。手渡される瞬間に、それが贈与であることが明らかにされてしまうと、それは直ちに返戻の義務を生み出してしまい、見返りを求めない贈与から「交換」へと変貌してしまいます」

芸能人が自分の名前を出して寄付をすると「売名だ」とか「偽善」とか言われるが、それも確かに贈与ではなく、交換に限りなく近い匂いがするからかもしれない。(そういった寄付は交換の範疇ではあるかもしれないが、ぼくはそれでも質が良いものだ思う。前述のボランティアも同じ。また本書でも市場=交換は贈与の前提条件とみなされている)

さらに贈与は「過去時制によって把握される」ものである。育てられている子供がまだ幼い頃は、ご飯が出てきたり、学校に行かせてくれることは当り前のことだと思う。その後、成熟するにつれて、親がしてくれていたことは当り前ではないと気づいたりする。自分が親になったりすればなおさらだろう。だから贈与は、受け取っている最中は気づかなくても、考えてみればありがたいものを受け取っていたんだな、と後から気づくものであることが多い。

「無償の愛」の正体

そして贈与は「受け取ることなく、開始することはできない」

親が子を育てるのは一方的な贈与です。見返りを求めない、いわゆる無償の愛です。(中略)ですが、無から生まれる愛、というのは誤解です。
あるコミュニケーション(言語的なものだけでなく、モノを介したやりとり、手助けしてもらう、他者を頼るなどの「行為」も含みます)が贈与であるならば、そこには先行する贈与があります。その「私は受け取ってしまった」という被贈与感、つまり「負い目」に起動されて、贈与は次々と渡されていきます。
親の無償の愛の以前に、何があるか。
それは、そのまた親(子から見れば祖父母)からの無償の愛です。

「私には育ててもらえるだけの根拠も理由もない。にもかかわらず、十全に愛されてしまった」、つまり「不当に愛されてしまった」という自覚、気づき、あるいはその感覚が、子に「負債」を追わせます(もしそこに確固たる理由があるならば、それは愛でも贈与でもなく、ただの「等価交換」です)。
それゆえ、意識的か無意識的かを問わず、負い目を相殺するための返礼、つまり「反対給付の義務」が子の内側に生じます。
反対給付の義務に衝き動かされた、返礼の相手が異なる(つまり恩「返し」ではない)贈与。これこそが「無償の愛」の正体です。

自分が理由なく受け取ったものを、違う誰かに匿名で託すこと。これが贈与である。(近所同士の物の際限ないやりとり、そこから生まれるつながりなどは、別の文脈の贈与として考えたほうがよいと思う)

贈与が意志力を起動する

こうして考えてみると、自分が何かしていたわけではないのに、受け取っているものはたくさんある。例えばぼくたちの今の健康は、コッホやパスツールとかいった有名な科学者だけでなく、誰かもわからない無名の人たちの猛烈な熱意によって、膨大な研究成果によって守られている。新型コロナウイルスのワクチンができたらお金と交換して打つかもしれないが、そこまで連綿と続いた科学者たちひとりひとりに報酬が与えられるわけではない。

ぼくは本が売れてから、情熱を失ったように感じることがあった。自分を直接的に育ててくれた親や会社がかけてくれた費用や労力は本という成果で返し終わったような気がしていたからだ。しかし、この本を読んでそういう自分は「交換」の思考に捕われていただけだとはっきりわかった。平和や人権や選挙権、インフラ、テクノロジー。ぼくたちの身の回りに当り前にあるものは、誰かが生涯をかけて追い求めたり、その達成がついぞ見ることのできなかった夢ばかりだ。もし自分は親に愛されて育ってないぞ! という人がいても、こういう達成の恩恵は受けているはずだ。

イスラム法学者の中田考さんは端的にこう言っていた。


「水道の栓をひねれば安全な水が出る、夏にコンビニに行けばただで涼しい思いができる、いきなり路上で爆弾が炸裂することもないし、武装集団に襲撃されてすべてを奪われるということもめったにありません。
そういう世界に暮らしていて、これでそもそも幸せじゃないとか言っているのは、ただ鈍いだけです」『みんなちがって、みんなダメ

ぼくがモノを限りなく減らした部屋で感じたことは、たとえ自分の持ち物ではなかったとしても、どれだけ多くのものに支えられているということだった。

自分の安全で、快適な生活を成り立たせているのは膨大な無名の人(アンサング・ヒーロー。その功績が顕彰されない影の功労者。歌われざる英雄)から不当に受け取った贈与である。それらは到底、一個人が返し終えられるような量のものではない。だから自分も匿名の個人として、見知らぬ誰かへ、会うこともできない世代へ受け取ったものを返していこうと思う。そう思うと情熱もいくばくか戻ってきたように感じる。ぼくはいちばん大事なものは人が何かをしようとする意志力だと思っている。それさえあれば、それこそなんとでも「交換」できると思っているからだ。その意志力を「贈与」が生み出せるとするなら。

贈与を受け取るためには想像力が必要だ。かつて山にトンネルを開け、道路の舗装を請け負った人、人権を勝ち取るために口角泡を飛ばして立ち向かった人、記憶もまだ確かでない頃に自分を育ててくれた親。どれも自分が直接見た場面ではないから想像力が必要になる。自分が不当に愛されたという思考には、自分がそうではない環境に生まれ落ちたらどうなったかという想像力だって必要になる。そんな想像力をどうやったら配れるのか、次の課題のようにぼくには思えた。

近内悠太『世界は贈与でできている』

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この記事を書いた人

作家/編集者。1979年生まれ。香川県出身。『BOMB!』、『STUDIO VOICE』、写真集&書籍編集者を経てフリーに。ミニマリスト本『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』は25カ国語に翻訳。習慣本『ぼくたちは習慣で、できている。』(ワニブックス刊)は12ヶ国語へ翻訳。