オリンピックと執筆 佐々木典士

卓球の伊藤美誠選手が、サーブする球を貫くように見つめる姿を見て、自分は原稿を書く時にこれほど張り詰められているだろうかと内省した。

オリンピックが開催に至るまでの経緯については、いろいろと思うところはある。それは忘れないとして、4年に1回だけ、負けたら終わりという真剣勝負の数々は想像していた以上に自分の胸に迫った。

執筆が張り詰めた感じがしないのは、やり直しができるからだ。間違った文字は消せばいいし、各種のアウトライナーを使えば、構成も自由自在に変更できる。やり直しがきかないように、原稿用紙に手書きしたり、タイプライターを使えばもっと緊張感が出るかもしれないと思うことはある。昔の文豪たちは卓球のサーブ時のように原稿用紙を睨みつけていたのだろうか? だが、さすがに不便も大きいし、ゲラで直してしまえるのは結局同じだ。

オリンピックの競技の中で、執筆に少しだけ似ているかなと思ったのはサーフィンだ。波は自然のものなので、一発勝負では実力が正確に測れない。だから決められた数十分で何度も波に乗り、一番得点の高い2本の得点で勝負する。

サーフィンのような数十分の単位で、俳句で勝負をすればかなり似通った緊張感になるかもしれない。文章の勝ち負けを判定するのは難しいことだが、スポーツのようにわかりやすいライバルもできたりして、切磋琢磨できたりするかもしれない。

一般的に原稿の締め切りは、サーフィンよりももっと長い区切りだ。その中で何度も何度も書き直し、一番良いと思った形を世の中に出す。400mリレーのような一回限りの勝負では逆に、練習でどれだけ成功していたとしても本番でバトンがつながらないこともある。

一回限りの真剣勝負と、やり直しの効く執筆ではそんな風に違うところもあるけれど、同じなのは人の目にふれるところ以外は地味で苦しいものだということだ。

アスリートが勝っても負けてもインタビューで涙を流すのは、苦しかった練習や、サポートしてくれた人たちなど、ここに至るまでの過程に思い至るからだろう。大きな舞台で勝てばスポットライトを浴びるが、アスリートがどれだけの栄誉を得たとしてもそこに至るまでの苦しみの方が大きいと思う。

執筆も形になって世に出たものを見れば、美しいと思えるかもしれないが、最中の行為は基本的に苦しい。書く時には、あの人の本のように、こんな風に書けたらいいなという理想だけはある。その理想と自分が今日書けるものにはいつもギャップがある。だから苦しい。自分の無能さを呪って書きたくなくなる。その気持ちを抑えつけて、修正を加え続け、ギャップを少しでも埋めていく作業が執筆だ。その無限の試行がある中で、これが私の本番ですと言えるものを締め切りに提出する。

そう考えると、自分が画面上の文字を、伊藤美誠選手と同じようには見つめられていないからといって自分を責めなくてもいいのかもしれない。アスリートと同じように、ただ毎日今日も練習するぞという気持ちで望めばいいのかもしれない。

と言いつつ、たまには画面上の文字を睨みつけたりしてみようか。

この記事を書いた人

作家/編集者。1979年生まれ。香川県出身。『BOMB!』、『STUDIO VOICE』、写真集&書籍編集者を経てフリーに。ミニマリスト本『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』は25カ国語に翻訳。習慣本『ぼくたちは習慣で、できている。』(ワニブックス刊)は12ヶ国語へ翻訳。