『今日の夕陽きれいだった』とツァラトゥストラはツイートする。  沼畑直樹

  佐々木さんと飲んだ夜から、自分も改めて「自分への帰還」的なことを考えている。

なぜなら、それを考えるのは、崖の上から海に向かって雄叫びをあげるくらい、開放的なことだからだ。

少し意味がわかりずらくなった。

しかし、叫びたい。

  少し真面目な言葉でその理由を説明する。

「私たち人間は、知識を受け継いで進化してきた」 と思う。

 

知識を溜めて思考を追究していけば、限界などないかのように伸長していく。

だから、私は本が大好きだ。

いい本に出会えると、自分が大きく成長した気分になる。 いい映画に出会えると、自分がセンスアップしたような気分になる。 どんないい本に出会ったか、どんな映画に出会ったか。 それが自分をスケールするものであり、自信となる。

部屋には本が溜まるだろう。DVDが溜まるだろう。 捨てられないだろう。

  そうして40年近くも生きてきた。

 

  今から1年前に、多くの本やDVDを捨てた。

自分を支える柱のようなものを取り払う行為だから、崖を飛び降りるような怖さがあったが、飛び降りてみると爽快だった。

  取り払ってから今まで、「何もしない時間」や「自分だけの一人の旅」「夕陽を見ること」などがテーマになってきたが、それらはすべて、「人の経験や人類の知識を得る行為」とは正反対で、「勉強をする時間」を食いつぶしていく、いわば敵である。

  たしかに、勉強はしない。 が、体は知る。

暮れかけた太陽もしくは満天の星空の下で、自分だけが「知る」。

自分の生身を通じ、他人には決して伝えることができないものを感じる。 それは仕事に行く早朝に見る朝陽かもしれないし、旅先の夕陽かもしれないし、星空やオーロラ、砂漠の雄大な風景やセントラルパークとビルの風景、海。

つまり、書もDVDも捨て、旅に出るのだ。

  ネットの電波さえ遮断する空間を作りたいと語っていた佐々木さんならこう言う。 「ネットを捨てよ町に出よう」

ストリートビューの風景をいくら見ても、体は反応しないのだ。 未来には脳に直接、行ったことのない海外の風景イメージが来るかもしれない。 が、たぶん、その地に立つという行為には、はるかに及ばないだろう。

 

 

    人類は大昔から、主人公である

  「夕陽を見ること」というテーマに絞って考えると、 「人は自分が主人公になるべき時間が必要だ」という答えに辿り着く。 現代人の我々は、膨大なコンテンツや人間をミーハーに追い続けているが、いつ、「自分の時間」がくるのだろうか。

映画を観るとき、私たちは主人公を見つめる。 私も映画が好きだから、ずっと主人公たちの生き方を見続けてきた。 佐々木さんも私も、最近映画を見なくなったのは、「自分が何を感じているのか」を大切にしはじめたからに他ならない。

そして、太古から人は映画の鑑賞者ではなかった。

  大昔から人間は一人ひとり、偉大な自然を目の当たりにし、その美しさに感動し続けている。 その感性はほとんど変わっていないだろう。 狩猟が上手くいかず、落胆しているときに、雪を照らす美しい夕陽。 仲間と黙って見つめるピンク色の空は、今私たちが見る夕陽の色とさほど変わらない。

そのとき、ある人は帰りを待つ子供を想うかもしれない。 ある人は病気の妻を想うかもしれない。 美しさと人生の狭間で心が揺れ動く一人ひとりは、まさに主人公だった。

 

    こうも言える。 大自然の美景に圧倒されるのは主人公だが、同時に何者でもない。 茶室では偉いも偉くないもないように、夕陽を見る人間にも偉いも偉くないもないからだ。 そこでは蓄えた知識の数も無関係になる。 ということは結局、自分が堂々と人に語ることができるのは、そういった自分だけの体験でしかない。

  佐々木さんも書いたように、誰かが作った映画や本、哲学書で、いくらでも人は武装できる。 が、実は人が語ることができるのは、自分が体験したことだけなのだと達観できれば、背伸びする必要もなくなる。 わざわざ語ることでもないかもしれない。「屋上で見た今日の富士山が本当に綺麗だった」と人に言っても、その心の動きも何も、決して伝わらないのだ。

 

  最初に戻る。 どうして叫びたいのか。 それは、山に入ったツァラトゥストラが「あんまり考えても意味なかったー!」と叫ぶようなイメージだ。 「いっぱい考えたのにーっ!」 山から見える海の向こう、雲の隙間から、橙色の薄明が顔を出す。

「『ここから見た夕景がすっごく綺麗!』それが人生の意味なのか!」とニンマリする。 今の時代ならすぐツイートするかもしれない。

そして、大昔から続く膨大な数の祖先の方々が、一緒に微笑んでくれるだろう。

しかしツァラトゥストラ…漫画でしか読んだことがない。

 

 宗教的な知識からも、哲学的な知識からも解放され、自分のための体験さえあればいいのだと気づいたとき、あなたも叫びたくなるだろうか。

山を登る、海で泳ぐ、ドライブをする。 朝陽を見る、夕陽を見る、オーロラに出会う。 風をきってバイクで荒野を走り、パラグライダーで空を飛ぶ。 公園でほっとする。 美しい風景に気づく。   素晴らしき哉人生、生きる意味にそれ以上もそれ以下も、ない。

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この記事を書いた人

『最小限主義。』、写真集『ジヴェリ』『パールロード』他(Rem York Maash Haas名義)、旅ガイド『スロウリィクロアチア』他

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