欲望と喜びの関係
佐々木典士

何かを「欲しい」思う欲望のメカニズムと、それが手に入ったとき「嬉しい」と思うメカニズムは違う可能性がある。

長い間どうしても欲しいと思い続け、努力して手に入れる。しかしせっかく手に入れたものの喜びがそれほど大きくない。単純にモノや金銭的なものに限らず、性愛や、仕事上の地位など、こういったことは誰にでも経験があるものではないかと思う。

ひとつの示唆的な実験がある。ラットにドーパミンを遮断する薬物を与えると、どれだけ美味しい餌があっても、ラットは食べようとせず餓死してしまう。薬物のせいで「欲しい」という欲望のシステムが壊れてしまったからだ。しかしそんな状態にあっても、甘い液体をラットの舌にのせてみると「好きだ」「嬉しい」という反応を取るという。「欲しい」というシステムは壊されても、それを「好きだ」「嬉しい」というシステムは別で残っているからだ。もちろんラットと人間を同じように扱うことはできないけれど、示唆的な実験ではある。

「欲しい」と思い込み、願い続けたもの。
それがたとえ手に入ってもそれを本当に気に入るかどうか、嬉しいと思えるかどうかは別の問題かもしれない。「欲しい」と思った労力に比べると、喜びがあまりにそっけないこともあるだろう。

欲しいと思ったものが手に入ったとき、予想通りに喜ぶためにはどうしたらいいのだろう。
実体験から学び取り、次回に活かす? 手に入れたときの状況を、しっかりシュミレーションする?
人間の想像力は「ぼくモノ」でも記した通り、思った以上に頼りないのでこれで解決するのは難しい。

解決するのは難しくても「こういうこともある」と認識しておくだけでも、ぼくは違いがあると思う。
たとえ想像通りでなくても、手に入れてみなければわからない。しかしあまりに強く「欲しい」と思い、それで他の大事なものまで損なわれてしまうようなら、「欲しい」という欲望のほうを疑ってみたほうがいい。自分はなぜ、それほどまでに「欲しい」と思ってしまっているのか?

「欲しい」という気持ちに抗うのは難しいかもしれない。
抗うのが難しくても人間は、自分を動かしている仕組みに「気づく」ことはできる。

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この記事を書いた人

作家/編集者。1979年生まれ。香川県出身。『BOMB!』、『STUDIO VOICE』、写真集&書籍編集者を経てフリーに。ミニマリスト本『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』は25カ国語に翻訳。習慣本『ぼくたちは習慣で、できている。』(ワニブックス刊)は12ヶ国語へ翻訳。