イチゴ畑と鮭
佐々木典士

「人は、素晴らしいイチゴ畑が目の前にあるのに、丘の向こうの川の鮭を探しに行ってしまう」
進化心理学者のダニエル・ネトルの本にこんな内容のことが書いてあった。

客観的に見れば、イチゴ畑を目の前にした人は、すでに充分なものを手に入れている。
それなのに手に入れたものの、評価はある程度までに留めておく。
満足して幸福に浸ってしまっていては、遅れを取ってしまうからだ。
目の前にあるものを段々つまらないものに思えるからこそ、別のものを探しに行ける。

「自然淘汰は、人間の幸福など歯牙にもかけない」という言葉もある。

幸福でいるということは、目の前にあるイチゴ畑をずっといいものとしてニコニコ眺めることである。それなのにいつもあるイチゴ畑は、つまらないものに見えて飽きてしまう。
来年は採れるのかどうかと悩む。このままではいけないのではないかと、不安になる。

慣れたり飽きることで、満足することなく違うものを探しに出かけられる。
悩みや不安を原動力に、人は進化し繁栄した。
ニコニコし続けたままでは変化に対応できず淘汰されてしまうのだから。

慣れる、飽きる。
悩み、不安がある。
個人の幸福にとっては障害になるものが、
集団の繁栄にとっては役に立ち、自然淘汰で勝ち残るためには必要だった。

注意しなければならないのは、環境が変わったのに
不安や悩みがかつての人が感じた程度のまま残っているということだ。
人間は5万年前から、脳も身体も進化していない。

5万年前と違い、今では餓死する人はほとんどいない。
なのに将来に対して過剰に不安になってしまう。

かつて自分が住んでいる共同体で村八分になることは、ほとんど致命的だった。
自分ひとりでは満足に食べ物も採れなかったのだから。
今では1つのコミュニティで村八分にあったところで、どこへでも行けるし、ネットを通じて気の合う友人を見つけることもできる。
なのに過剰に人目を気にしてしまう。孤独を恐れてしまう。

 

どこまで行っても悩み、不安はある。
人はそれを見つけてくる天才なのだから。
どんな環境にも慣れ、飽きる。
人はその機能によって繁栄したのだから。

悩みや不安。慣れ、飽き。
それは自分の問題と捉えるより、生まれつき人に備わってしまっている仕組みぐらいに考えたほうがいい。
少し距離を置いてみるのだ。

音楽家の前野健太さんにこんな曲がある。
「悩み、不安、最高!!」
いつまでも一緒にいる必要があるなら、いっそ友人になってしまう。

小池龍之介さんの言葉も印象に残っている。
「うまくいってるから刺激がないわけで、つまり、それが幸せなのです」
「幸せになると飽きてくるものなのです」

当たり前にあるイチゴ畑は、その存在すら段々見えなくなっていく。
だが人に備わっているのは、残念な仕組みだけではない。

飽きたはずのものをもう一度見つめ直すことだって、人はできるのだ。

 

  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

作家/編集者。1979年生まれ。香川県出身。『BOMB!』、『STUDIO VOICE』、写真集&書籍編集者を経てフリーに。ミニマリスト本『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』は25カ国語に翻訳。習慣本『ぼくたちは習慣で、できている。』(ワニブックス刊)は12ヶ国語へ翻訳。