東京からはとにかく離れたかった。
ミニマリズムを実践しはじめて、東京の魅力が半減していくのを感じた。
買い物をするには便利な街だが、当然その恩恵は減った。ぼくにとっては銀座も青山も、魅力的な街ではなくなりつつあった。
モノから離れると同時に、ぼくは自然に魅せられるようになっていった。夕陽の美しさにうっとりし、土を踏んで安心し、空を見上げて気持ちが晴れあがっていくのを度々感じた。
東京では高いビルに阻まれて、朝日も夕陽も見えづらい。タワーマンションに住めば、見えるだろうか? しかしその建物は他人の空を奪っていやしないのか? 土をしばらく踏んでいないと感じれば、公園のある都立図書館に通った。
家賃が高い。広告はうるさく汚い。忙しすぎる人たちは、多すぎる他人に冷たい。
高校生と同じ心理
でも今思えば、こういった苛立ちは、は何もない田舎が嫌で嫌で都会に出て行きたくてしょうがない高校生と同じような心理だったと思う。長く住んでいると、その街の魅力はわかりづらくなり、その街の悪いところばかりが目に入ってくる。
ニューヨークを旅してそこに住んでいる人は、ニューヨークをとても愛していると感じた。自分も東京を離れたとはいえ、日本の首都で、大切な友人も住んでいる場所。東京を嫌いなままでいるより、もっと好きな部分も発見したい。何かを嫌いと言ってしまうよりも、好きと言いたい。
引っ越してから、1ヶ月に1度は東京に行く機会があった。
相変わらず住みたいとは思わないけれど、行った時には大いに東京を楽しんでいる。
はじめての「東京」
ビッグベン問題
「ビッグベン問題」という心理現象がある。ビッグベンというのは、ロンドンの有名な時計台だけど、ローカルたちは普段そこへはほとんど行かず、引っ越しが決まりロンドンから離れることになってようやく初めて行ったりするという現象のこと。
ビッグベン問題はロンドンだけでなくあらゆる場所で発生する。
東京に住んでいれば、東京タワーにはあまり登らないし、
ニューヨーカーで、エンパイアステートビルに登ったことのない人もたくさんいた。
関西に引っ越したが、奈良の鹿も、京都の寺も少しずつ当たり前の風景になっていく。
人は「いつでも行ける」という場所にはあまり価値を見出さない。
「いつでも行ける」と思うところには、足を運ばなくなる。
東京には18年も住んでいたのに、巣鴨も、清澄白河もそこを離れてから初めて行ったのだ。
お菓子の「カール」にしてもそうだろう。カールが東日本での販売を中止することになり、品薄のお店が増えた。「カール」なんていつでも変わらずあるのだから、季節限定の味を食べようと普段なら思ったりする。
ニューヨークはどこにでも
ニューヨークの旅がよかったので、ニューヨークが好きな沼畑さんとよく話題にする。そして「自分の街を、旅するような感覚で住みたい」ということを最近はよく話している。ビッグベン問題も知ってさえいれば、乗り越えられる可能性も出てくる。いつでもある同じ風景を、異国を旅しているかのように新鮮に感じたい。
いつかバスに乗っていて、レインボーブリッジから見える東京湾とビル群を見て「ここもニューヨークじゃん」と思えたときがあった。自分の解像度さえ高めていれば、どこだって旅をするように見つめることができるはずだ。