うどんと白ワインとコーヒー 佐々木典士

東京で食べるうどんと、香川県で食べるうどんは 同じ讃岐うどんでもなぜか味が違う。

ぼくが生まれて育ったのは香川県だ。

 

うどん! うどん!

 

田んぼのなかに立っているようなお店で、うどんを食べる。 休みの日、特にあてもなく、ただ家族と一緒に安いうどんを食べる。 東京にもおいしいうどんのお店が増えてきた。 たぶんだけど、科学的に成分を調べれば 香川のお店と変わらないおいしさ。

 

でも東京のお店はやっぱりせわしない。 隣の席の距離はより短いのに、隣の席の客との距離はより遠い。 ゆったりとした時間のなかで家族と味わう、うどんとは比べられない。

 

なんとなく、香川と東京のうどんの味の違いをそんな風に考えていた。

 

沼畑さんがモノを捨てて少なくした結果、家のテラスで飲む白ワインがおいしくなった、 そしてコーヒーをハンドドリップするようになったと言った。

 

食べ物のおいしさを隔てる理由は「集中」なのだと今は思う。

 

人気店に行列を作ることの好きな日本人。 その習慣にぜんぜん馴染めなかったけど、今はその理由が少しわかる。

 

待ったぶんだけ、その食べ物を味わうときには集中しようとする。おいしくなる。   力を持ったビジネス・パートナーと食べる食事、相手を伺いながら食べる食事は どんなに高級レストランでも、おいしくないはずだ。

 

そこで集中しているのは、食事ではなく、相手の「機嫌」だからだ。

 

モノが少ないと、モノに気を配ることが減る。 片付けて、掃除して、埃をとって。

 

「どうして片付けないの? 掃除しないの?」

 

モノからはそんな「沈黙」のメッセージが常に発せられている。

 

そのメッセージが、集中を損なう。

反対にモノを減らすと集中できる。

 

ただ目の前の白ワインと集中して向き合える。

自分で挽いて淹れたコーヒーと集中して向き合える。

 

食べ物に「集中する」とは、その食べ物の来歴に思いを馳せることでもある。

 

自分で種をまき、育て、収穫し、料理した野菜はきっとおいしい。

自分で釣って、さばいて、刺し身にした魚はきっとおいしい。

誰かに淹れてもらうより、誰かに挽いてもらうより、自分で挽いて淹れたコーヒーはおいしい。

 

食べ物と自分との距離が縮まるほど、来歴を考え、思いを馳せ、その時間がおいしさを増す。

 

禅の教えでは、一口ごとに箸を置くべきだと言う。 それは、食べ物と自分との距離が遠くても、食べ物の「来歴」に思いを馳せ、「感謝」し、 食べ物に「集中」する時間を長く取ることに他ならないのではないだろうか。

 

車で小一時間ほどかけて、うどん屋に家族で向かう。 その時間が、なおさらうどんに集中させてくれる。

 

まわりの豊かな自然が、うどんに集中させてくれる。

特に予定もないから、食べることに集中できる。

香川県民であれば、みんなうどんの批評家だから、 その自負が、なおさらうどんに集中させてくれる。

 

香川県のうどんは、そうしておいしくなっていったのだ。

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この記事を書いた人

作家/編集者。1979年生まれ。香川県出身。『BOMB!』、『STUDIO VOICE』、写真集&書籍編集者を経てフリーに。ミニマリスト本『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』は25カ国語に翻訳。習慣本『ぼくたちは習慣で、できている。』(ワニブックス刊)は12ヶ国語へ翻訳。