道教と禅、ミニマリズムは相性がいい。
『The Book of Tea(茶の本)』の章《Taoism and the Way of Tea》で、岡倉天心が書いていることは悉くミニマリズムに繋がっている。
道教はいわゆる陰と陽の考え方。それぞれが存在するから形がある。彼は書く。
Truth is made up of opposites.
「真理は反対側によって作られる」
なるほど。ミニマリストという発想自体、マキシマムを経験した人たちから生まれた。
現代のミニマリスト・ムーブメントは、コンシューマリズム(消費主義という意味での)からの反動だ。
芸術でいえば技術と色彩を駆使したものへの反動。
もし豊かな日本で自分が生きていなければ、そもそもモノが少ない国や場所で生まれていたら、言葉に意味がなくなる。
豊かな国だからこそ、生まれた陰と陽。
道教は「己の役を勤めるために芝居全体を知る」ことを求め、反対側の相手も受け入れることを技とする。敵だからと言って力で突き飛ばさず、引き入れ、一体化する。
その考えから、「何もない空間」を道教も禅も大事とした。
Real value can only be found in empty space.
本当の価値は、空虚にのみ見いだせる。
茶室を作る壁や屋根ではなく、壁や屋根が作った空虚こそが本質だと。
空虚には人が入り、花が入り、人が出て、花も出て行く。
移ろうことができる場所。それこそが本質であり、素晴らしいものだと説いた。
グラスはグラスの形自体が素晴らしいのではなく、ワインの注がれる、その空間が素晴らしいという。
たしかに、その空虚がガラスで埋められていたら、ワインを光りにあてて眺めることもできない。
美術館で真っ白なキャンバスが作品として展示されたら、それは「あなたを受け入れる」という意味だ。受け入れ、観る人は自分の感性を使って白を観る。そして、自分だけの感情や思い出で作品を完成させる。すべてが完璧に書かれている絵では、それができない。
水墨画もモノクロ写真も、色を消すことで想像力を呼びこんでいる。
そんなことを考えつつ、たまたま先日、江戸城跡が見えるベンチでコーヒーを飲んでいた。石垣の上の天守閣を想像して、残っていれば美しいだろうなと思った。
観光名所としては抜群だろうと。
だけども。天心の言う道教、禅、茶室の考え方からすると、本当に美しいのは、天守閣という建造物によって生まれた空間であり、そこを行き来した人や花だったかもしれない。だとすると、それはもう二度と戻ってこないのだと感じ入った。
想像すると、むしろ、美しい。
岡倉は他に、仏教は理想の地を求め、他を受け入れないが、道教と禅は現世をこのようなものだと受け入れたと書いていた。受け入れ、人生の些事に偉大を見つける。
The way of tea is a result of this zen view of life, of the greatness of life appearing in its smallest objects and events.
(茶道は人生の些事の中にでも偉大を考えるという禅の教え)
今、多くのミニマリストが人生の些事の中に偉大を見つけている。
幸せだが、批判されたり、批判したりする。
もしミニマリズムも道教や禅と同じ姿勢をとるなら、コンシューマリズムを認めるということになる。そうでないとすると、今の世の中の否定になり、ミニマリズムの否定にもなるからだ。
マキシマムもいいし、コンシューマリズムもいい。
コンシューマリズムがあるから、ミニマリズムがある。
多くの人がすでに言っていることかもしれないけれども、茶室の考え方を通じて、そう思った。