あえてする「見えない化」
佐々木典士

「見える化」は生活の面でもさまざまなところで有効だ。

 

 

たとえば家計簿。毎月どれだけ何に使っているか理解することが節制への入り口。

「同居人モノさんの家賃」を自分がいくら負担しているかを考えるには1㎡あたりの家賃を考えてくださいとよく言っている。

シャンプーだって、透明の容器なら補充するタイミングがわかって便利だ。

 

 

しかし「見えない化」していく選択も必要なのではないかと思う。

 

 

たとえばぼくは、このブログのPVは基本的に見ないようにしている。

「こういう記事は人気で、こういう記事は不人気なんだなぁ」

と思えば、自分が楽しんで書くといういちばん大事なことが後回しになってしまうかもしれないから。

 

 

SNSにしてもそう。最近はありがたいことにtwitterのつぶやきに「いいね」が100ぐらいつくことはよくあるようになった。しかしそれが10ぐらいしかつかなかったときは、90の「どうでもいいね!」がついているとも言える。これは平均いいねが1000になっても1万になろうが原理的に同じだ。

 

 

「モノはわかりやすい値段というものがついているので人と比べやすく、そうでない経験は人と比べにくい」という話をたびたびしてきた。しかし、SNSや評価経済の中でフォロワーやいいねの数を基軸に自分の経験を考えるようなら、以前とまったく同じことになってしまう。

 

 

ぼくがtwitterや他のサービスに実装してほしいと思うのは、フォロワー数や、いいねの数を「自分だけ非公開」にできること。他人からは見えていていいが、自分は把握できないという設定。自分がその数値を気にしたくはないからだ。

 

 

労働に関しても同じ。

 

 

畠山千春さんが「自分たちで作った農作物は単価がついてしまうから市場で売らない」ということを言っていた。自分たちの感じている価値を大切にするための「見えない化」だ。先日行った南知多では「小魚はいくらでも釣れる。が数百円でいくらでも売っているので時間かけて釣りをするのは本当に好きな人にしか割に合わない」という話を聞いた。

 

 

市場でつく値段以上の価値を感じるから、農作業をしたり、釣りをしたりする。

労働の「時給換算」もときおりするにはいい。不当に長く働かされていることの証明にもなるかもしれない。

しかしそれが常日頃から頭にあると、ボランティアや無償の活動など手を出しづらくなってくる。高給取りの人はそんな場面でこんなことを言う。「私の時給がいくらか知ってるの?」

 

 

SNSやWebで注目されやすい方法はあって、人の感情を実害がない程度に逆撫ですればいい。非難するコメントはくるだろう。しかしそれを「ただのドットの集まり」と思えるようになって、人の感情を逆撫ですることはタダでできる行為だと思えれば注目は集まりやすくなる。

 

 

生きることは誰かを傷つけることで、ぼくも誰かを今も傷つけ続けているが、それを「使い放題サービス」のように浪費したくはない。

 

 

ぼくは人の喜びや悲しみ、感情が結局のところすべてだと思っている。価値の源泉はそこにしかないと思っている。それはなかなか見える化しにくいものなのだ。

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この記事を書いた人

作家/編集者。1979年生まれ。香川県出身。『BOMB!』、『STUDIO VOICE』、写真集&書籍編集者を経てフリーに。ミニマリスト本『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』は25カ国語に翻訳。習慣本『ぼくたちは習慣で、できている。』(ワニブックス刊)は12ヶ国語へ翻訳。