能動態と受動態、する/される、という区別は普遍的なものではなく、むしろ歴史としては新しいものであるらしい。
かつて、能動態でも受動態でもない「中動態」が存在していた。
この本を手に取ったのは、ぼくの今のテーマが習慣だから。習慣を実行しているときに、それをしようとする「意志」をほとんど使っていないと思うからだ。
この本の冒頭は、薬物・アルコール依存をサポートする女性との対話ではじまっている。
「しっかりとした意志をもって、努力して、『もう二度とクスリはやらないようにする』って思ってるとやめられない」
習慣に関して、ぼくも同じ意見だ。努力して、意志に頼るとやめたいことはやめられないし、続けたいことを意志の力で成り立たせることはできないと思っている。意志に頼っても、ろくなことはない。頼ってできなければ「やっぱり私はダメな人間だ」という負のスパイラルが始まるからだ。
たとえば何かをすることに、意志が関与していないことについて、歩くことの例があげられている。
歩く動作は人体の全身に関わっている。人体には二〇〇以上の骨、一〇〇以上の関節、約四〇〇の骨格筋がある。それらがきわめて繊細な連携プレーを行うことによってはじめて歩く動作が可能になるわけだが、私はそうした複雑な人体の機構を自分で動かそうと思って動かしているわけではない。
ロボットを歩かせるのが難しいのは、この連携プレーのすべてを言語化し、指示を与えなければいけないからだろう。さらに路面の状況や、段差のフィードバックの計算も必要になってくる。人間なら、考えずに歩くことができる。
私が何ごとかをなすとき、私は意志をもって自分でその行為を遂行しているように感じる。また人が何ごとかをなすのを見ると、私はその人が意志を持って自分でその行為を遂行しているように感じる。しかし、「自分で」がいったい何を指しているのかを決定するのは容易ではないし、そこで想定されているような「意志」を行為の源泉と考えるのも難しい。
「私が歩く」という文が指し示してるのは、私が歩くというよりも、むしろ、私において歩行が実現されていると表現されるべき事態であった。
この本を紹介する中島岳志さんがあげる例にも惹かれた。
当時、ヒンディー語を専攻していた私は、「与格」という奇妙な構文に出会った。ヒンディー語では I love you を「私にあなたへの愛がやってきて留まっている」という言い方をする。自らの意志や力が及ばない事態や行為は、「~に」で始まる与格構文を使うのだと習った。
能動的なものでもなく、受動的なものでもない愛。どこからか自然にやってきて、しばし留まる愛。これは多くの人の実感に近いのではないだろうか?
習慣化がなされると、意志して「する」という感じではなくなってくる。「私において、習慣が実現されている」と言ったほうが自分でもしっくりくる。
能動の形式は、意志の存在を強くアピールする。この形式は、事態や行為の出発点が「私」にあり、また「私」こそがその原動力であることを強調する。
私は何ごとかをなすことを「意志」したのだから、行為の出発点は私にある。そして意志した人間はその結果の「責任」を負う。冒頭の対話はここに接続される。違法薬物の依存症者は、多くが性的虐待などの暴力を経験しているという。
ならば、自らの耐え難い何かによって、法を犯す行為を促されたのだとして、そのことの責任はいったいどう考えればよいだろうか? 何らかの罰は受けねばならないとしても、この行為を「本人の責任」と言って片付けてしまってよいのだろうか?
言語と思考は互いに関連性がある。たとえば日本語の「主語が省ける」という特性は、責任の主体をあいまいにする文化と関係があると思う。それと同じように、能動/受動という区別は、行為の出発点となる「意志」を明確にし、そこに「責任」を追わせるための区別である。ギリシア世界にはそもそも「意志」という言葉すらなかった……。
現在の言語は、「お前の意志は?」と尋問してくるのだ。それはいわば尋問する言語である。
以上はこの本のほんのさわりの部分を紹介しただけ。ここから著者の國分さんは、古典ギリシア語やラテン語を学びつつ、中動態の歴史、文法解釈の歴史に分け入り、中動態をキーに哲学史を再考する。
その精緻な議論の積み重ねは、簡単な紹介ですらぼくの手に余るので興味を持った方はぜひ。國分さんの著作は推理小説みたいな構成で、哲学の知識があまりなくてもぐいぐい読めるのは『暇と退屈の倫理学』と同じだ。日本のアカデミズムの方がみなさんこういう書き手なら、もっと本を読む人が増えるのではないかと思う。
そういえば、國分さんの引用のスタイル「◯◯はこんなことを言っている」という文体は「ぼくモノ」でもパクったのだった……。
哲学は言葉の定義を明確にすることでもあるから、ときおり出てくるシャープな定義を読んでいるだけでもすっきりとして楽しい。
たとえばハンナ・アレントの政治の定義。
「政治の条件とは複数性であると述べている。複数性とは人間が必ず複数人いるということである。人間が複数人いるということは、そこに必ず不一致があるということだ。したがって政治とは、そうした不一致をもたらす複数性のなかで、人々が一致を探り、一致を達成し、コミュニティを動かしていく活動に他ならない」
たとえば「嫉妬」
「嫉妬とはある人の愛情が自分ではない別の人間に向けられることに対する憎しみであり、つねに第三者がかかわっている」
たとえば「ねたみ」
「この人は私とは違う」「この人は私よりも、もともとすぐれている」と思う人物のことを人はねたんだりしない。「こいつにこれができるのなら自分にだってできてもいいはずなのに」「あいつがそうであるのなら、自分だってそうであってもいいはずなのに」と思える人物のことを人はねたむ。ねたみは比較と切り離せないのであって、比較できないもの、たとえば自分とは格が違う人物に対しては人はそのような感情を抱きはしないのだ。
國分さんの専門は哲学だが、そのテーマが普通の人もなんとなく感じていて、しかしそれが当たり前すぎて疑問にすら思えないようなテーマを出発点としているから、自分に引きつけて読みやすいというのもあると思う。あとがきにもそんな姿勢が書かれている。
哲学は概念を扱う。哲学は漠然と心理を追求しているのではない。直面した問題に応答するべく概念を創造する――それが哲学の営みである(真理とはおそらくこの営みの副産物として得られるものだ)。哲学にできるのはそのようなことであり、そのようなことでしかない。だから私は自分が出会った問題に応答するべく、中動態の概念に取り組んだ。
國分さんはイケメンの哲学者。なるほど、ぜんぜんねためない。