いろいろ素敵な生き方がある。
ワインをたしなむ毎日だったり、季節により寄り添う暮らしだったり、田舎暮らし、都会暮らし、セレブな感じとか。
私も憧れ、実践し、積み重ねてきた。
さかのぼれば、18のころに自分の部屋を片付けて、まさにミニマリズムのように床には何も置かないようにして、フロアライトで雰囲気を仕上げたあとに、坂本龍一を聴くという夜にしばらく浸かっていた。それは、友人の女性がまさにそういう時間を過ごしていて、影響を受けたから。
沖縄では海の見える丘の上で、当時珍しかったモバイル型のワープロとコーヒーをテーブルに置いて、南の島の独特な幸福感を味わった。
東京の都心に暮らしたときは、「土曜日の朝を近所のカフェで」が楽しく、今もときどき思い出す。
流行っていた小さい盆栽を部屋のテーブルに置き、自慢の自転車で街中をただ走る。
家を買ってリフォームするときは、NYの友人宅で触れた、「コンクリートの壁に白いペンキ」が生む、あの雰囲気を目指した。
クロアチアの影響でバルコニーで夕方をワインもしくはビールもしくは水とともに過ごす。というのもやった。
京都の季節に寄り添う暮らし、つまりは杉本家のような和の暮らしに憧れ、歳時記を大切にしようと思ったのはここ数年のことだ。
そうして、憧れ、試して、実践してきたが、時間が経つと毎日の生活から少しずつ消えていく、「素敵な暮らし」。
「素敵だ」と思う心は消えることがないが、心にSaveしているだけで、デスクトップからはDeleteされているのだ。
いつのまにか。
そうして、スタイルのない毎日を過ごす。
特に今は、何か「素敵な暮らし」をしているかというと、まったくしていない。
ただ家族で過ごし、ドライブを愉しむ。
自慢できるような、素敵がまったくない。
佐々木さんに続いて酒をやめたことも影響しているのかもしれない。
お洒落をしてお洒落なレストランやカフェに行くことに「まったく」興味がない。
2017年は「ホテルでブッフェ」を愉しんだが、続かなかった。
冬の服は数年前の紺系シャツ1枚とカーディガンの組み合わせのみ。つまり、今シーズンは1枚も追加していない。
もう一枚あるシャツは、洗濯の際に数回着たのみ。
ミニマリズムを始めたころにはシングルオリジンのチョコレートとコーヒーに夢中になったが、いざ有名店が日本に出店すると、全然行かない。青いマークの店には三茶に寄ったときにたまたまあったから持ち帰りをして「やっぱり美味しい」と思ったが、店内で飲む気にはなれなかった。蔵前のチョコレート店は外から通り過ぎただけ。店舗の美しさには惚れ惚れした。
ドライブして森の中へ行ってコーヒーを飲むとか、一人旅とか、そういうイメージにも強い憧れはあるが、実はドライブに関して、ひたすらピュアになってきていて、ただ走ることが楽しく、場所はどこでもよくなった。
近所のある道をただのんびり走れば、それで満足できる。
そんな感じなので、本当にインスタで紹介できるような美しい画もなく、フェイスブックも投稿できないままだ。
ツイッターも個人的なつぶやきはなく、このミニマル&イズムに投稿するような事件もない。
ライフハックにもまったく興味なく、海外旅行の興味も少し減ってしまっている。
どうしてなのかというと、わからない。
誰でもそうだが、興味は時が経つと薄れていく。
ミニマリズムを意識しているわけではないが、「素敵」はどうやら、ミニマライズしていったらしい。
数年前、黒い壁の家で、和の食器で暮らす人の写真にいいなと思ったことがある。
素敵な和食器や茶道具を持つスタイルを、かっこいいと思ったのだ。
その気持ちが、今はない。
「下りた」というのが近いのか。
振り返ると、松尾祥子さんとの対談で、「キャンプもいいけど、いい道具を揃えようとすると、また競争になる」と言われたのがターニングポイントだったような記憶がある。ミニマリズムで本を捨てて、モノで自分を自慢するのをやめたはずなのに、これからもモノでの自慢競争はいつでもエントリーできると気づいた。
気づかぬうちに、エントリーしている。
それ以来、エントリーに関しては、とりあえず、「下りる」。
「下りる」カテゴリがいつのまにか、「素敵な暮らし」にまで及んだようだ。
ただし、人の暮らしやモノを「素敵だ」と思う心は変わらない。
「素敵」のない暮らしは、外側からはみすぼらしく見えるのかもしれない。
昔憧れた、マンハッタンでの都会的な暮らしでもなく、和の慎ましい暮らしでもない。
友人と楽しく飲み歩くわけでもなく、お洒落な服を着てお洒落なお酒を嗜むのでもない。
憧れたこと、なんにもしていない。
なのに心は清々しい。
幸福である、というより、心が健康であるというのが相応しい。
そして、そういうふうに健康な人が、世の中にははるか昔から、今の時代も、たくさんいる。