龍安寺の石庭とミニマリズム
佐々木典士

紅葉が充分に色づいていて楽しめた季節。 仕事で京都に行くことになり、龍安寺まで足を伸ばしてみることにした。

 

龍安寺の石庭。ミニマリズムの極地とも呼べる場所でミニマルについて考えたかったのだ。 石庭についてパンフレットの情報も見ず、事前のリサーチもせず、ただ石庭の前に坐る。 観

 

光客と、学生がそれなりに集まっていて賑やかだった。

 

最初に感じたのは、正直に言って軽い失望感だった。

写真で見ていた印象と違う、スケール自体の小ささ。そっけなく、とてもこじんまりとしている。 観光地ならではの、少し雑然とした環境も影響したかもしれない。

 

それでも何かを感じ取りたくて、しばらくの間、ただ坐ってみる。 じーっと庭を見続けていると、敷き詰められた白砂の一粒一粒が人間のように見えてきた。 そして15個の置かれた石のひとつひとつが島のように見えてきた。島に群がる人間。

 

そして石に根付いている苔のような植物にも目がいく。

 

植物が「光合成」することは誰でも知っていると思う。 太陽と、水と、二酸化炭素から 酸素を引き離し、エネルギーを作り出す。 生物についての本を読んでいて、誰でも知っている光合成は、 ほとんど奇跡のような仕組みで、太陽光パネルなど比較にならない効率を持っていることを知った。

 

ぼくはそのことを知ってから、その辺に適当にある 植え込みに対しても敬虔な気持ちを抱くようになった。

 

知識を得て、ただの植え込みを違うように見れたのだ。

 

石庭を囲む塀は、菜種油を入れ練り合わせた土で作られているらしい。 塀や土の専門家であれば、飽きることなくこの壁を観察できるかもしれない。

 

15個の石も、敷き詰められている砂も、ぼくには名前がわからない。 鉱物の専門家であればもしかしたら一晩中語れるような種類なのかもしれない。

 

ぼくにはわからないだけで、この庭には無数の情報が詰め込まれている。

 

視点がミクロに移っていく。 石に根付く小さな植物のそれぞれが、その内部のさらに小さな葉緑体で光合成をしている。 敷き詰められた白砂を顕微鏡でのぞけば、複雑に入り組んだ形状のひとつひとつは、 渓谷や砂丘の壮大な景色に似ているかもしれない。

 

そう考えると、この庭はほとんど世界と同じような大きさを持っている。

 

ミニマリストについて、モノがないと味気なくなるのでは? と思うひとはたくさんいると思う。 ぼくはこのミニマルな石庭を目にして、 いくらミニマルになってもミニマルになりすぎることはないのだと知った。

 

いくらミニマルにしてもそこには、膨大すぎるほどの情報がある。 ただその情報を意識できないだけだ。

 

そして、たとえ目の前に何もなくても、自分の意識の流れを集中して感じ取れば、こんなにおもしろいものは他にないと思っている。

 

石庭がミニマルだからこそ、ミクロの世界への意識がジャンプした。

 

もし見た目に豪華な庭だったら、表面をいろいろなぞるだけで充分に楽しめ、 自分の意識の変化を楽しめるようなことはなかったはずだ。

 

そして、観察するこちらもミニマルになっている必要がある。

 

龍安寺を訪れる前に、なすべきことは終え、時間に余裕を持って訪れた。 京都に来る機会もあまりないから、各地の名所にも心惹かれたが、 今回は龍安寺だけを訪れることに決めていた。

 

スケジュールがいっぱいで観光地めぐりで慌ただしかったら、 最初の失望感を感じた時点で、早々に石庭を立ち去ったかもしれない。

 

ミニマルなもの、なんでもないものを味わうためには、 こちらもミニマルにして、集中する必要があるのだ。

  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

作家/編集者。1979年生まれ。香川県出身。『BOMB!』、『STUDIO VOICE』、写真集&書籍編集者を経てフリーに。ミニマリスト本『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』は25カ国語に翻訳。習慣本『ぼくたちは習慣で、できている。』(ワニブックス刊)は12ヶ国語へ翻訳。