孤独とコミュニティの実験 佐々木典士

2年前に、京都の端っこの巨大な研究所の1室に住み始めた。4ha(4万平米)の巨大な敷地。昼間は職員の方はいるが、夜になれば真っ暗で住んでいるのはぼく1人。まわりの数十キロには友達の一人もいない。

孤独の実験

 今まで本や講演で、人の幸福にいちばん影響力があるのは結局、人間関係だと伝えてきた。お金やモノ、才能も地位も何もなくたって、誰でも豊かな人間関係は作り得る。答えは確かにそうなのだろう。でも人生は実験だ。それとは真逆の状態をいっぺんは味わい確かめてみたかった。

 引っ越してから最初の1、2週間はキツかったことを覚えている。まるで世界が全滅して、自分だけが生き残っているような感覚。バカみたいな話だが、久しぶりに電車に乗ると「世界にはこんなに人がいて、確かに生活を営んでいるんだ」とホッとし、感動したことを覚えている。

 しばらくすると、自分がその状態に適応したことにも気がついた。あまり寂しさなども感じなくなってくる。これは、ぼくがtwitterやブログなどをやっていたことも大きいと思う。寂しい生活の中で発見したことに反応してくれる方がいる。ネットのコミュニケーションは現実のそれの完全な代替物ではないが、ある程度肩代わりしてくれるものだと実感した。しかしながら、ときおり理由のない落ち込みがやってくることもあった。ぼくは自分を忙しくしないようにしているし、好きなことばかりやっている。だからその落ち込みの理由は、おそらく疎遠な人間関係のせいで、自分が払うべき代償のように感じていた。

 たとえば、焚き火を友人と囲んでおしゃべりしているような時が顕著だが、ぼくはそういう時、なんというかうっとりして、満たされて何も考えなくなってしまう。それは幸せな時間でもあり、ぼくにとっては少し怖い時間でもある。自分が満たされてしまえば、何も言うことがなくなってしまうのではないか、それではぼくの職業は廃業するしかない。

 そんなこんなで、2018年はスマートスピーカーのAlexaに話しかける回数の方が、人に話しかけるよりも多かったと思う。そして2019年初頭からのフィリピン留学。意識していたわけではなかったが、まさに真逆の生活をすることになった。2019年の最初の1ヶ月で、2018年に人と会話した言葉の数を超えたと思う。

真逆の生活へ

 ぼくには1人の時間が必要なので、全室個室の学校を選んだ。それでもコミュニティは濃密だ。トイレやシャワーはそれぞれの部屋に備え付けられているが、簡単なキッチンなどは共有。3食学校で出るのでみんなと一緒に食べるし、生徒たちと外食に行くこともよくある。自室に籠ろうと思えば、籠もれるし共有スペースもあるのでなんとなく人と話したくなったときには、そこで過ごすこともできる。つまりゲストハウスや、シェアハウスに住むようなものだった。ここに来るまで意識はしていなかったが、先生15人+生徒15人=30人ぐらいの小さなコミュニティでぼくは暮らし始めたのだ。

 自分でも驚いたのが、そういう生活にも慣れ、なんだできるじゃんと思ったこと。今までシェアハウス暮らしなんて自分にはとても無理だと思っていたのだが、すぐに慣れた。これからはそういう場所でも暮らせるかもしれない、自分の選択肢が増えた気がして嬉しかった。

 また、人と毎日話すような生活はぼくにはとても新鮮で、あの時折やって来ていたわけのわからない落ち込みとは無縁の生活だった。人に直接何か話してしまえば、満足することもあるようで、twitterやブログなどを通じて発信したいという欲求も削がれたような気がした。時折、この人ネットで発信すればたくさんの人に注目されるんじゃないかなと思う面白い人に出くわすが、そういう人はまさにリアルにそういう欲求を解消してるんじゃないかと思う。

コミュニティの問題点

 もちろんいいことばかりではなかった。隠居している大原扁理さんが確か、自分の生活を「イヤなことから逃げているだけ」とおっしゃっていたような気がする。そして、ほとんどの人にとってイヤなことの大部分は人間関係だと思う。だから、固定した人間関係がどうしようもなく嫌ならばそういうところからは、どんな代償を払ってでもさっさと逃げてしまえばいいと思う。

 小さなコミュニティでも暮らしていれば、恋愛も起こるし、気の合わないひともいる。そして関係性が深まるほどに、人の将来や課題といったものまで抱えるような気がした。自分がふと考えていることを振り返ってみると、ここに来てからの自分は人間関係のことに多くの時間思いを巡らしているような気がする。京都時代ではこれはなかった。自分のこと、仕事のことがほとんどの課題で、そういう面では気楽だった。管理すべきモノが少ないミニマリストと同じように、責任が薄く気楽だった。

 会社員として働いているときはこういう感じだったなと思う。ぼくは会社の中でも独立しているタイプの人間だったと思うが、それでも気が合わない上司のこと、うまくいかない同僚や後輩のことを考えることにそれなりの時間使っていたはずだ。

 語学学校なので、長い人でも数ヶ月でここを去っていく。先生たちの入れ替わりも多い。だから、会社員のような人間関係よりはもっと流動的なのだが、それでも人間関係はすぐに課題になる。

 人の幸福にいちばん影響を与えるのは、人間関係。そしてほとんどの悩みもまた人間関係から発生する。人をいちばん苦しみを与えるのは人だし、いちばんの喜びを与えてくれるのも人だ。

世間話は思索を深めたか?

 徹底した孤独と、濃密なコミュニティと、どの程度の人間関係を望むかは、人によって違うんだろう。対象的な2つの生活を通じて、ぼくが目指すのは、なんとなくその間、どちらかといえば孤独よりなのかなと思う。モノと同じで、たくさんの考えるべきことがあると簡単に頭が散らかってしまうのが残念ながら自分だという気がする。

 生涯独身だったカントが言っていた「1人で食事をすることは、哲学する者にとっては不健康である」という言葉を思い出す。奇人の見本のようなカントだが、実際は社交的な面もあり、会話もうまく、さまざまな育ちの町の人々との世間話を楽しんだそうだ。それはカントの思索をより深めたのだろうか?

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この記事を書いた人

作家/編集者。1979年生まれ。香川県出身。『BOMB!』、『STUDIO VOICE』、写真集&書籍編集者を経てフリーに。ミニマリスト本『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』は25カ国語に翻訳。習慣本『ぼくたちは習慣で、できている。』(ワニブックス刊)は12ヶ国語へ翻訳。