夕陽を見ることのできる場所に、夕方にいることはできるのか。
沼畑直樹

夕陽を見ることのできる場所を探している。

 

新宿で働いてたころに、オフィスの中で「気づくと空は真っ暗」という毎日を送っていて、1日の終わりに夕陽を見て、家路を辿ることが人間にとって大切だと考えた。
それが最初。

 

独立して代官山から吉祥寺に引っ越した。
西側に窓があり、綺麗な夕陽が差し込んだ家から、朝日の方向に窓がある家に引っ越した。
週末の夕方の、あの優しい西陽が恋しくなった。

 

1年ほど経って、クロアチアのアドリア海のホテルのバルコニーで、ビールを飲んだ幸せを考えた。
それを自分の家で実現させたいと思い、南東に向いたベランダで、夕方にワインを飲むと幸せな気分になった。
ベランダに置いた椅子から夕陽は見えないが、広い空に浮かぶ雲は夕陽を浴びている。

 

幸せな気分になるのはワインのせいだと最初は思っていたが、やがてそれが間違いだと気づいた。
ある日、ワイングラスに水を注いでも、幸せな気分は変わらなかったのだ。
要するに、夕方、夕空を見ながら、外に佇むことが幸福感に繋がっているらしい。
なんとシンプルで、ミニマルな方法論だろう。

 

しかし。

 

しばらくして、そんな習慣も消えていく。
冬は寒い。

 

 

それから7年ほど経つ。
アドリア海に何度も行ったが、どうしてあの海岸線の町の人々が幸せなのか、うまく説明できないままだった。
しかし2014年の秋、アドリア海の幸せ感の秘密は、西に海があるからだと考えた。
午後も3時をすぎると、ここはずっと赤い光に照らされて、切なく、温かい。

 

夕陽が見える町だと、どうして幸せなのか? という問いに答えるのは難しい。
無理矢理に答えるとしたら、こんな感じだ。
私の場合、風景でも人でも、写真を撮るときは朝日か夕陽を使う。
その眩しさに目がくらむような瞬間を撮る。
もしそれが動画であれば、そこにピアノの曲を足してみる。
安い言い方かもしれないが、その動画を再生したとき、「人生は美しい」と感じるだろう。
だから毎日にも、朝陽や夕陽があるほうがいい。

 

それで今、自分の住む家のまわりで、夕陽の見える場所を探している。

 

夕陽の時間にそこにいること

 

夕陽の見える場所は、地図でいくつかピックアップできた。
しかし、ふと考える。
「夕陽の時間に、ここにいることはできるのか?」
家から少しでも離れれば、夕方にそこにいる理由はなくなってしまう。
それよりも、夕飯の支度が大切になるだろう。
週末のことを考えると、たいていはその時間、イベントを終えて家でほっと一息ついている。

 

だから、旅先は夕陽が絡んだりする。
夕陽が見える場所のホテルだったら、のんびり夕陽を見て、部屋に帰ればいいだけだからだ。

 

あきらめたくない。
平日、夕陽が見えて、夕方に行くこともできる場所はないか。

 

三鷹の野川のあたり、国分寺崖線の高台がいいのではないかと考えた。
東京で綺麗な夕陽を見ることができる場所。
調べるのに一番効率的なのは、富士山が見える場所だ。
国分寺崖線には数カ所、富士見がある。

 

東八道路から調布飛行場に向かう道は、目の前に富士山が見える。
大沢緑地近くの坂を登っても、富士山が見えた。
しかし、夕方は保育園にいる娘を車で迎えに行き、吉祥寺の家に着いているころだ。
一緒に夕陽を見に行くには、娘は小さすぎる。

 

今日は、南西側の窓を拭いた。
いつもブラインドで閉じている窓だ。
がっと上に引き上げて、窓際のテーブルで風景をずっと眺めてみた。

 

コーヒーを淹れて、落ち着いてテーブルの椅子に座ってみる。
夕陽に染まった、薄明の空は見える。
4階だから、美しい地平線近くは望めない。
だが、期待できる。
なかなか美しい。

 

真っ正面であるか、そうでないかは、重要な要素かもしれないが、しっかり窓辺に佇めば、自分の顔は真っ赤に染まっているだろう。
向かいの家から覗かれるのが嫌で閉じていた窓が、この家を買って以来(2006年購入なので7年)、初めて主人公になったようだった。
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この記事を書いた人

『最小限主義。』、写真集『ジヴェリ』『パールロード』他(Rem York Maash Haas名義)、旅ガイド『スロウリィクロアチア』他

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