ぼくは、かなりのうっかりさんだ。 先日、カギを玄関のドアにさしたまま外出し、半日ほど家を空けてしまっていた。
外出先から家への帰り道に、カギがないことには気づいた。 なぜかキーカバーだけ、ぷらーんと持っている。 こういう形のキーカバーを使っているのだけれど、最近カバーを交換したときに、リングにカギを通さず、外側のキーカバーの部分だけに通してしまっていたらしい。
ドアを閉めてカギを抜くときに、スポッとカバーだけ取ってかばんに入れていたわけだ。
なぜ気づかない、自分……。
カギがないことに気づき、おそらくカギがドアに刺さったままだろうことにも思い当たった。 カギを挿したまま半日も空けるなんて……
一瞬そう思ったが、次に感じたのは、なぜか「安心感」だった。 たとえこの半日で泥棒に入られたとしても、特に盗んで嬉しくなるような高価なモノは家にはない。
このちょっとした事件の前に、銀行口座の通帳も捨てていた。普段も使っている口座だが、通帳は何年も使っていない。1年使っていないものは捨てる、というルールがあるので捨てた。たぶん少し困ることもあるだろうけど、きっとなんとなる。ネットで「通帳って捨てていいんですかね?」と検索して考える前に、とりあえず捨てた。
大事なものが家にない。これは、とても自由で安心を感じられることだと気づいた。
ミニマリストになると、他人への目線が変わると思う。 たくさん持っている人に対してあった、わずかな妬み。 わずかしか持っていない人に対しての、かすかな蔑み。 そういう気持ちがなくなってくる。みんな違うけれど、「同等な人間」として接することができる。
他人への目線が変わるということは、世界をどう見ているか、ということが変わるということだ。 少し説明したい。
小学校の頃、財布を落としたことがある。中身は二千円ぐらいだったろうか。ゲームセンターで遊んでいて、そのまま置いてしまったようだった。どこかで気づき、ゲームセンターに戻る。今からするとわずかな金額でも当時からするときっと大金だっただろう。財布もどこかで買ったお土産で思い入れがある。財布を探していると、まわりの人間が全員、泥棒候補に見えてきた。誰かがお尻のポケットに入れている財布。それは自分のものではないかと、本気で疑った。
もうひとつ例をあげたい。 仕事でたまに海外へ行くので、100万円ほどを外貨両替することがある。大金を持っているので、いつもよりドキドキしてしまう。両替をする渋谷までは1駅だが、その往復は気を抜けない。少しやんちゃそうなお兄さんがその道中にいたとする。大金を持っているせいで、そのお兄さんは普段出会うより、さらにやんちゃで危険な人物に見えてしまったりする。
多く持ったものを守るために、警備会社と契約し、防犯カメラをあらゆるところにとりつけ、ガチガチに家を固めることは、果たして幸せなことだろうか?
マフィア映画でよくあるシーン。麻薬王の豪邸に主人公が潜入する。高い壁はまわりをよせつけず、庭には子分とドーベルマンの群れが警戒を欠かさない。家に近づいてくるものはみな、泥棒だというわけだ。
映画監督のトム・シャドヤックは、1580㎡の豪邸を引き払い、93㎡のトレーラーハウスに引っ越した。「以前なら、電動の門扉と180センチのフェンスのせいで、そそくさと立ち去ってしまったご近所さんと友達になれた」と彼は言っている。
たくさん持っているとまわりの人を、そのひとの本当以上に危険な人物とみなしたり、いきすぎると泥棒扱いしたりしてしまう。他人を必要以上に恐れてしまう。他人を恐れ、決して信頼はしない。他人は自分を脅かしたり、何かを奪ったりするものだ。自分はそんな危険な世界に生きている。そんな世界の見方が、幸せにつながるはずはない。
人を恐れるより、人をできるだけ信頼する世界の見方をしたい。
クロアチアの人々が幸せに見える理由がまたひとつわかった気がする。http://minimalism.jp/archives/303
初対面で、素性も知らない日本人をいきなり家に招き入れてくれた家族は、ぼくたちをなぜか信頼してくれていたのだ。
カギを挿したままのドアは、一応おそるおそる開けた。 そこで泥棒と鉢合わせしたとする。泥棒はモノを盗んでも、みなが凶暴で人を傷つけたいわけじゃないはずだ。
鉢合わせすると、相手は部屋に何もないことに途方に暮れている。こちらが恐れていないことを伝われば、相手も恐れない。可能ならば「まあ座って、コーヒーでも一杯」と誘いたい。
泥棒もきっと、誰かに話でも聞いて欲しいはずだ。
ぼくは空想して楽しむ。
泥棒A「この間、空き巣にはいったんだけどさ……」
泥棒B「まさか……また?」
泥棒A「そう、また部屋になんにもなかったんだよ!」
泥棒B「ミニマリスト!! あいつらマジでなんなんだよ!」
泥棒A「そろそろ、足を洗うか……」