都市に住んでも、自分以上を目指さない
沼畑直樹

ポートランドに行ったことがないが、ポートランドのイメージが好きだ。
街は小さく、すぐそばに自然がある。

 

大きな都会的なものを求めず、等身大の幸せを追求しているイメージ。
それぞれが独立した店舗での営業を楽しみ、市民はチェーン店よりもそういった店に価値を感じる。

 

それは、ロンドン、NY、東京ではかなうことのないスタイルのような気がする。

 

 

これらの街にはお金を持った人たちが集まり、何らかの方法でそれを表現する。
同時に、お金を持ってない、普通の人も、そのカルチャーを追従する。

 

高い料理。高い商品。

 

安いものを見下す傾向が少なからずあり、自分は「高いもの、一流のものしか買わない」と主張する傾向が、少なからず、ある。

 

 

そんな人々が行き交う東京の中で、質素で清貧に生きようとする考えは、自分にとって等身大だと感じた。

 

貴族生まれであるなら、一流品に囲まれていていい。
だが、私は貴族階級ではなく、東北南部藩から出た庶民階級であり、今も生粋の庶民だ。

 

 

「質素に清貧に生きてはいけない」と説かれれば、息が詰まるが、自分で選択する清貧は清々しい。
逆に、「一流のものを身につけ、豪勢に生きよ」と説かれ、高級マンションを買う人生を周りから強いられれば、逃げ出したくなることもあるだろう。
「老後のために、たくさんのお金を貯めないといけませんよ」と銀行に言われれば、将来の不安で鬱病になりかねない。
みんな幸せに生きたいのに、そういう不安をかき立てる人は、まわりにいたりする。
そんな言葉を投げかけられても、
      「身の丈にあった住まいと、身の丈にあった金額の食事をし、できるだけ質素に暮らす」
そう考えれば、心の不安は払拭される。

 

 

昔、NYを歩くと、世界の頂点のような場所で、高みを目指す人々のエネルギーを感じて元気になった。
しかし、そういうところでは、自分以上を目指さない人を排除することもあるかもしれない。

 

もしくは、目指さないことを決めた人は、マンハッタンを出て行くかもしれない。

 

街を出て行くのも一つの案ではあるが、そういった都会に住みながら、質素で清貧なミニマリズムの暮らしをするのも、未来的だと感じている。

 

 

私の家は吉祥寺の駅近くだから、いずれにしろ中途半端ではある。
マンハッタンやロンドンと比較するような都心でもないので人に落ち着きはある。
だが、駅周辺にチェーン店は多く、インディペンデントな店は生きづらい環境にある。

 

自然は井の頭公園だけだ。
山は見えない。

 

 

しかし、車で少し出ると野川公園や深大寺がある。
そこにポートランド的な未来を希望してしまうこのごろである。

 

 

 

 ※写真は津久井湖
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

『最小限主義。』、写真集『ジヴェリ』『パールロード』他(Rem York Maash Haas名義)、旅ガイド『スロウリィクロアチア』他

メール info@tablemagazines.com