ミニマリストオフ会に足を運んでいると、姫姉様きっかけでブログをはじめたという人がたくさんいた。
「もののけ姫」に出てくるシシ神。
シシ神が歩いた足元には、植物が生まれる。
そんな風に、姉様の行く先々でブログが生まれている。
名古屋のオフ会で出会った方も触発され、その日のうちにTwitterを始められた。そして今後ブログもはじめられるようだ。
そして、その様子がなんだかとても楽しそうなのだ。
「自己発信」アレルギー
自分がこのブログを始める前のこと。
ぼくはSNSやブログでの「自己発信」というものにすごく懐疑的だった。
今は過剰すぎる情報があるから、そこにさらに自分の情報を付け加えることなど愚かだと思っていた。
すでにある膨大な情報に、さらに自分が情報を付け加えることで、大事な情報が埋もれやすくなる。
あらゆるものが出尽くしているのだから、自分が何かそこに付け加えられるものがあるとも思っていなかった。
ぼくは1冊の本を書いた。自分が影響を受けまくったすばらしい本たちと、自分が書いた本を書店で一緒に並べようなんて、無茶なことだし愚かだとも思う。
確かにそういう面も、あるに違いない。才能ある人だけに「書く」ことを任せる。ぼくのような凡人はひたすら情報を「読む」「消費する」側に回らなければならないというわけだ。
だけど「書く」ことが好きになってから、ぼくの考えは少し変わった。
「書くこと」は人を健康にする
ブログ『少ない物ですっきり暮らす』のやまさんのツイートがある。
やまさんの娘さんは絵画教室に通われているそうだ。
その絵画教室の先生が言った言葉。
「絵でも文でもなんでも心を表現することは、人を健康にする」
そう、文章を「書く」ことは人を「健康」にするのだ。
なぜだろう?
悩みを解決するのに有効な方法として、まず悩みを「書き出す」というものがある。
なんとも言えず辛いことや、自分が不安に思っていることをとにかく形にしてみる。
すると不思議なことが起こる。「書く」だけでその悩みが軽くなるのだ。
悩むということは、何か得体のしれないもやもやが自分の中で渦巻いていることでもある。
書くだけで悩みが解決するわけではもちろんない。だが、そのもやもやしていることを、書くことで整理し、明確にするだけで少しすっきりとするのだ。
書くことで形にしてみれば、悩みが思ったよりも少ないことがわかったりする。そして悩みの正体がわかれば、対処法はいくらでもある。だから書くことは人を健康にする。
ただの愚痴を聞かされるのは嫌なものだが、書くことで明確にされた愚痴ならば共感を呼ぶこともある。
ミニマリストのブログでも、会社であった辛いことや、日常生活での不満を記事にしている人がいるが、真剣な愚痴は誰かにきっと刺さるのだろう。
近くの誰にも言えないような悩みを、遠くの誰かに伝えることができるのもブログの価値だと知った。
「書く」ことは「考える」こと
そして「書く」ことは「考える」ことでもある。
自分のもやもやを、そのまま書き殴っていては誰にも伝わらない文章ができあがってしまう。
人が内容を理解するためには、簡単なものでも、論理が必要だ。
ぼくは、はじめて本を書いた。
その中には、まず結論があって、それに向かって書き進めたものがある。
それ以外にも書きながら、論理を積み重ねたものもある。
つまり「書きながら考えた」ものがある。書きながら考えたものは、書いた本の中でも大きな結論のひとつになった。
そんな風に「書く」ことは「考える」こと。
書きながら考えていくと自分が予想もしていないとんでもない結論にいきつくこともあった。
「書く」ことが自体が考えを深めたのだ。
誰もが自分のなかで、ぐるぐる渦巻く、もやもやを持っている。
それを書くことで明確にできる。それを書くことで考えが深まり、対処法を考えられる。
そうして人は健康になる。
ブログやSNSでの「自己発信」に懐疑的だった自分。
そんな自分も健康になれたので、誰かが「書く」ことを否定することはもはやできない。
「誰にも言えないこと」を誰かに
姫姉様に触れて、書くことをはじめた人はみな健康そうだ。
まわりの誰にも言えないことを、誰もが抱えている。
誰にも言えないような内容だからこそ、どこかに必ず共感してくれるひとがいる。
ぼくはブログを通して「書く」ことの楽しさを知ってしまった。
日記もいいが、誰にも言えないようなプライベートなことになればなるほど、誰かがきっと待ち望んでいるのだから
勇気を出して公開してみるのがいいと思う。誰かの目を意識すれば、わかりやすく書くようにもなるし、書くモチベーションにもつながる。
自分は何かを書いていいような人間ではないとずっと思っていたし、
今でもそう思っている。
だが書くことは少なくとも、自分のためにはなる。書くことは人を健康にする。書くことで、理解力は深まるから、書くことでよりよい消費者にだってなれるのだ。
これから書き続けても、だれも読まないような内容になるかもしれない。ぜんぜん読者がいなくなるかもしれない。
それでもぼくは書くことを、もうやめないだろう。