1年後のミニマリズム④
〜自分で選ぶ、好きな時間〜
佐々木典士

ミニマリストの定義のようなものをするなら、
そのひとつは「大事なもののために減らす人」のことだとぼくは思っています。
この考えは1年後の今も変わっていません。

モノと向き合うこととは?

モノを減らすためには
気に入っていないモノの中から、気に入っているモノを選びだすだけでなく、気に入っているモノ同士を比べてよりどちらがより良いか感じる必要があります。

減らしたいのに、減らせなくて
「なぜこれが減らせないのか?」「一体何に自分は執着しているのか?」
何度も何度も自分に問いかける。

つまりモノを減らすことは、モノと向き合っているようでいて実は、自分の価値観と向き合っているのです。自分が本当に好きなものは何か、どこまでの持ち物で自分は良しとするのか。

自分の価値観に気づいていく

そんな風にモノを減らしていくなかで「自分で選ぶ」という感覚が研ぎ澄まれてていく。一般的に「まあ、こういうものだよね」という曖昧な基準はなくなっていく。

ぼくはバスタオルではなく、1枚の手ぬぐいを使っています。
食器洗い専用の洗剤や、洗濯洗剤や髪専用のシャンプーでなく、ただの洗剤をすべてに使っています。そして毎日同じような服装をしています。

どれも「まあ普通こうだよね」とか「この場合こうするよね」という基準から離れ自分自身で「これでいい」「これで充分だ」と決めた基準です。

減らしていくなかで、本当の自分の価値観に気づいていく。
そうしてぼくは以前より「自分が好きなこと」がはっきりとしてきました。
旅をすること。運動すること。自然と親しむこと。気を許せる友人と語らうこと。本を読むこと。何かを書くこと。

どれも当たり前のものですがこれが本当に好きなんだと、ようやく確信ができてきたのです。

沼畑さんの「最小限主義。」で明確化されたミニマルな幸福論「空」も大きかったです。気分が落ち込むことが今でもありますが、その度にぼくは広い空を探しては、気持ちが晴れあがっていくのを感じました。たぶん「空」には主観を超えた幸福があるのだと思います。

汚部屋時代には、超夜型の生活を過ごしていたことと、掃除ができていない埃が太陽光で目立つのが嫌で、24時間雨戸を閉めていました。当時は気づいていませんでしたが、自分で自分に「空がない」という追い打ちをかけていたのです。

変化していくすべて

何度も書いてきたように幸せに「なる」ことはできません。
モノを減らしたからといって幸せに「なる」ことはできない。

それは苦しみがあるからこそ、幸せを感じることができるからです。
絶対的な基準はなく、あるのはただの「落差」のみ。
「一切皆苦」を説いた、仏陀のことを考えてもいいかもしれません。

すべては変化とともにある。一切の苦しみがなくなってしまっては、幸せを感じられないように人間はできている。絶対に勝つことがわかっている勝負はおもしろくもなんともない。ずっと休んでいられてそれを誰も咎めなくても、満足はできない。ずっと好きな時間だけでも、それにはいつか飽きてしまう。

だから幸せは、ときおりただ「感じる」ことができるだけ。
ストックできる性質のものではなく、一瞬一瞬で流れていくものです。
流れていく今この瞬間に、意識を向ける。

「大事なもののために減らす人」がミニマリストだと冒頭で書きました。
ぼくにとって大事なものは、好きなことをする時間。その好きなことは、たとえ当たり前のことでも、自分自身で実験し再検討したものです。

せっかく集めたのにモノが管理できず、そんな自分をただ呪ってうだうだしていた時間。人が決めた基準を気にしてばかりで、行動できずにぐるぐるしていた時間。自分を恥じて、他人と比べてばかりいた時間。

そんな時間を、大事な時間のために減らしたのです。
ぼくはモノが好きです。今も買い物をする時間が好きです。
しかしそれ以上に、自分が大切にしたい時間があり、その時間を振り分けたのです。

「減らす」のはなぜか?
他の誰でもない自分が選んだ好きなこと。
その、好きなことをする時間のために「減らす」

これがぼくがこの1年で感じた、結論のひとつだと思います。

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この記事を書いた人

作家/編集者。1979年生まれ。香川県出身。『BOMB!』、『STUDIO VOICE』、写真集&書籍編集者を経てフリーに。ミニマリスト本『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』は25カ国語に翻訳。習慣本『ぼくたちは習慣で、できている。』(ワニブックス刊)は12ヶ国語へ翻訳。

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